門限の9時

ここに無い魔法 帰りの電車

寂しいけど、全然寂しくなんかない

会社の同期と飲んでたら、隣に座ってた男子が急に、真面目な顔して、「なんで彼氏いないの?」と聞いてきた。
知るか。こっちが聞きたいよ。私に聞かないでくれ。理由は私にあるんだろうけど、それが分からないから今、彼氏がいないんだ。


大学4年間を東京という土地で過ごしたけれど、結局、地元で働いている。東京の何倍も広い所なはずなのに、なんでこんなにも筒抜けなんだろうか。職場には、高校の同級生のお母さんがいるし、毎朝乗る電車は、友達の妹と一緒だ。勤務中、電話を取れば、親の勤め先からの電話で、名前を名乗っただけで、親に「娘さん○○会社に入られたんですね」と伝わる。母校の制服を着た子たちが他人に見えない。

地元は好きだ。東京に比べたら何もないけど。
良い所だけど、何もないから、東京で働きたかった。一人で東京で暮らしたかった。東京は、人の喜怒哀楽がいつでもそこらじゅうに落ちているからだ。
今、私が暮らすこの街は、東京に比べたらなんにもない。私が今どこの会社で働いているかが、光より速く知り合いに伝わるように、私の喜怒哀楽が全部筒抜けになっているような感じがする。人との繋がりの中で生きている実感も同時にするけれど、なぜか寂しい。
逆に、東京は人が多い。うんざりするほど多い。まったく、賑やかなところだ。そのおかげで、一人でも全然寂しくない。東京のど真ん中のスクランブル交差点を歩く人だって、みんなみんな点と点だ。万有引力によって引き寄せられた一人ぼっちの集合体だ。その中にいれば、寂しいとか悲しいとかいう気持ちが、街中に溢れた嬉しい楽しいで薄まるのを感じるのだ。


某日金曜の夜、東京・新宿。
私は、飲みの席で、同期の男子に、なぜ彼氏がいないのかと聞かれていた。
なぜだろう。点と点の方が寂しくないなんて思ってるからなんじゃないだろうか。寂しさに対して鈍感でいたいからなんじゃないだろうか。そんなことばっかり浮かんでいた。
すると、向かいの席の男子がタバコの煙を吐きながら言った。
「ななんちゃんは、一人で生きていけそうだからね。」

私は、少し間を置いてからメニューを手に取った。パラパラとめくりながら、店員を呼んで「この店、かわいげってありますか?」と尋ねる自分を想像した。ネタかよ。いや、疲れか。今日は終電で帰ろう。絶対帰ろう。というか、研修という名の出張も終わったわけだし、さっさと地元に帰ろう。


確かに、そうなんだ。なぜか分からないけど、私は昔から、大抵のことは一人で解決してしまえる。
大抵のことは一人で乗り越えられるし、大抵の場所も一人で行ける。
大抵のことは。

一人で生きていけそうと言われたら、生きていけるよと答えるだけだ。
例えば素敵な映画を見て、「よかった」と言える人が隣にいなければ、帰りの電車は各駅停車に乗って感傷に耽るだけだし、光くんがカッコいいと思えばツイッターで騒いで気が済む。


でも、つくづく思うのは、どんなことだって、一人より誰かと一緒の方が絶対もっと楽しいってこと。一人で充分だと思うことだってあるけど、それはどう足掻いても大抵のことだけだ。
行ってみたいご飯屋さん、一人だって行けるけど、せっかく行くなら誰かと一緒に行って、「美味しいね」って話しながら食べたい。その方が絶対美味しい。光くんがカッコいいというツイートに反応があればより嬉しいし、TLに同じようなツイートが溢れれば贅沢だと思う。

って分かっているんだけど、グズグズしてる時間は、残念ながらない。私は、社会人というスタートラインに立たされて、訳も分からぬまま、「よーいどん」と言われて走り出してしまった。私が待ってと言っても、私の毎日は待ってくれない。自分の手と足を動かして呼吸をして走り続けるしかない。そして、気がつけば25になって、気がつけば30になって…って、歳を取っていくんだろう。


オギャーと生まれて、生き始めてしまったからには、生きていかなくてはいけない。
人は一人で生まれてきたじゃないか。一人で生きていくしかないじゃないか。
私を生きるのは私しかいないじゃないか。


一人で生きていけなさそうな人の方が幸せになれるの。
一人で生きていけそうだからって、私はまた、一人で、大丈夫じゃないことにも大丈夫と言い続けなければいけないの。
助けてって言われてないから助けてくれないの。
幸せにしてなんて難しいこと求めてないの。些細なことで幸せになれるの。


なのに、一人で生きていけそうだからってだけで、我慢したって、強がったって、しっかりしたって、報われない。
それでも、トイレの鏡に映る、強がりを目一杯貼り付けた自分を見つめて、「寂しくなんかないよね?」「大丈夫だよね?」と問いかけて、前髪を直すフリして目を逸らして、瞬きをして、何事もなかったように出て行く。
「大丈夫」って言葉はもう、人を心配させないための言葉なんかじゃない。自分が安心する、「あ、私、まだ大丈夫」って思える、お守りみたいなもの。



寂しくない。辛くもない。でも寂しい。
でも、少なくとも私は自分を生きる意思はある。
一人じゃ生きられないから私を生かせてなんて、他力本願じゃなくて、自分の言葉で幸せを定義したい。
だから、薄めたい。寂しいとか悲しいとか、そういう気持ちを。誰かと一緒なら薄まる気がするんだ。凌げる気がするんだ。紛れる気がするんだ。
言葉はいらないんだ。そういう気持ちも必要なんだ。


テーブルの奥の方に座っていたはずなのに、気がつけば、一番入り口の近くにいた。注文するものを取りまとめ、空いたグラスを下げてもらう。結局、そういう役回りだ。

あ、一人で生きていけそう。
でも、やっぱり、一人より誰かと一緒の方がずっといい。
面倒臭いかもしれないし、煩わしいかもしれないけど、誰かと一緒ならきっと薄まる。
空いたグラスを見て、「何飲む?」とメニューを渡す。そう、その氷が溶けて薄まったお酒みたいに。

変わったこと

山田くん、23歳のお誕生日おめでとうございます。

山田くんの誕生日、毎年書きたいことがたくさんあったのに、今年は何書こうかなって悩んでいます。
この1年で、私は山田担ではなくなってしまいました。あんなに離れられなかったのに、八乙女担としての私が自他共にしっくり来てる。楽しい。だからこそ、今、すごく山田くんと良い距離感で居られているなって思うの。山田くんもそう思わない?


だから、山田くんに話したいことを考えている間に、私の話を聞いてよ。

私、先週まで4月に入社した会社で研修を受けてたんだ。私が社会人だよ?びっくりだよね。山田くんも23歳になったわけだし、そりゃそうか(笑)
山田くんとHey!Say!JUMPのことが好きなだけだった私が、大学を卒業して、社会人になったんだよ。そこで、山田くんやHey!Say!JUMPと同じくらい、好きって思える仲間に出会ったんだ。たった1ヶ月で。
これまで、2学期になってようやくクラスメイトと仲良くなるような人だった私が、たった1ヶ月で1人1人としっかり関係が築けて、自分の居場所を作れたんだよ。すごくない?(笑)

私ずっと、自分は変わりたくないっていう気持ちが強い人間だと思ってた。だから山田担も続けたかったし、続けることに意味があるって思っていた。
たしかに、染まりたくない、慣れたくないって気持ちは強い方だと思う今も。

でも、ちょっと自分を違うところに置いたら世界がちょっと変わった。山田くんから降りられたら、山田くんに素直に「頑張れ」とか「おめでとう」とか「絶対エース」って言えるようになった。
今までは、ゴールまでの道のりが見えないとスタート切るのも怖かったのに、あんまり考え込まずに一歩踏み出してみようって思えるようになった。今では「フットワークが軽い」って言われるくらい(笑)。
歩き始めたら歩き続けなきゃって思ってたけど、寄り道してもいいやって思えるようになったし、似合わないって思ってたこともやってみようって思えるようになった。

そしたら、自分を生きるのもそんなに悪くないなって思えるようになったし、変わらないことが自分を大事にするってことじゃないんだなって、わかったんだ。


山田くんは、エースなのに、あの、山田涼介なのに、大人になってくっていう人間っぽさをすごく見せてくれる人だなってずっと思っていた。笑顔とか考え方とか、負けず嫌いなところとか、変わらない部分はずっと変わらないけど、山田涼介を脱ぎ着できるようになったなって最近すごく思うんだ。
そうやって変わっていく、大人になってく山田くんに着いて行こうって、変わりたくないって思ってたけど、山田くんみたいに「目標は持たない生き方」が少し出来るようになってから、自分を生きるのがちょっと楽しくなった。変わっていく自分が面白いって思えるようになった。
だから今、山田くんってすごい人なんだなって心から思っているよ。


このブログも、山田くんへの気持ちとかHey!Say!JUMPへのことを書きたくて始めた。
暗殺教室〜卒業編〜」の感想を書いた記事だったかな、忘れたけど、このブログやってて形になったことって何もないなって思ってたの。人に言わせれば、何も生み出さない無駄な時間だったかなって。

でも、先日の研修で毎日書かされていた日誌を読んだ上司にね、「日誌を一つの作品みたいに表現しきっていて素晴らしい」って褒められたの。ここで私は、良いことばっかり書いてきたわけじゃない。時に、周囲の、山田くんやHey!Say!JUMPへの気持ちと違うことを書いたこともあった。でも、そもそも自己満足で始めたんだから、嘘はつかないってことだけ考えて書いてた。
いつの間にかそれが癖になって、「言葉」や「文章」が私の個性みたいになってた。

そしたら、上司に「自分をさらけ出して、文章に落とせる力がすごい。変わりたいって気持ちが伝わってきて、こんなに素直な日誌を書ける新人は初めてだ」って。
目的とか目標とかなく、始めたブログで、できるようになったことが自分の中で1番認められる「らしさ」になって、変われないと思っていた私が、変わっていける人になった。

今の私、会社じゃ何ひとつできることなんてない。
でも、楽しいし、今の自分結構好きだ。
物足りなさもむず痒さも全部含めて気に入ってる。

山田くんも、山田涼介気に入ってるでしょ?でも、まだまだ満足してないでしょ?そんな感じだと思うよ。

という感じで、私は山田くん担当じゃなくなったけど、楽しく生きてる。山田くんに伝わってるといいな。


ようやく、山田くんのこと話すね。
今の山田くんは、みんなの山田涼介であることを楽しんでいるように見えるよ。
山田くんが思う山田くんと、周りが思う山田くんとのギャップに悩んでたこともあったように思うけど、だんだんと山田涼介を受け入れて、強くなったし、迷いがなくなったのかなって気がするよ。
なにより、JUMPといるときの楽しそう顔とか、ジャニーズの中で交友関係も広がってて、圭人もいて(笑)、充実した毎日を送れてるのかなって感じがするから、見ていて安心できる。
どこに出しても恥ずかしくない自慢のエースになったなって思う。
今の山田くんすごく良いなって思う。
そういう人がきっとまだまだたくさん山田くんを好きになって応援してくれると思うと楽しみです。

これからも身体だけには気をつけて、山田くんらしく頑張ってください。
拙い文章でしかも私のよくわかんない話ばかりでごめんね。

23歳のあなたに素敵な毎日が訪れますように!
お誕生日おめでとう山田くん!


「数々の場面」

いつの間にか、あの時、取材陣の前で謝った薮くんの年齢を、私はもう追い越してしまっていた。時の流れとはなぜこうも残酷なのだろうか。

君のいない毎日に、自然と慣れてしまった。時間のせいなんだ。だって、忘れてしまったわけではないのだから。
あの晩、偶然見つけた写真を見ても、現実だなんて思えなかったこととか、翌朝、現実だと知った時のショックとか、「これからHey!Say!JUMPどうなるんだろう」と内心取り乱したまま学校に行ったら、なぜか小山担の友達が教室で号泣していてたこととか、事実だけはこびり付いて離れないのだ。


あれから、君の名前を耳にするたびに、「君がいたら」とか「君がいれば」なんて枕詞をつけて「どんな今があっただろう」って想像したりすることが何度あったか分からない。
でも「別れはまた会う約束さ」なんて、言える状況や立場にあった人は一人もいなかった。
10人で笑い合ってた日のことを話してはいけないと言われているような気が、ずっとしていた毎日だった。


君は必ず戻ってくると信じていたファンもいた。きっと君もその存在を知っていたはずだ。でも、Hey!Say!JUMPと「数々の場面」を共に過ごすことができなかった君への、ファンの願いが叶うことはなかった。


君がここにいたという過去を知らない人の方が多くなって行くのかもしれない。私たちも慣れて、いつしか忘れてしまうのかもしれない。

でも、こういう形ではあるけれど、君はまた私たちの前に現れることができたし、新たな道を歩き始めることができた。
私には、美談にする気も、なかったことにする気もないけれど、君は必ず戻ってくるという願いは無駄じゃなかったということだというのは感じている。
君がこうして新しいスタートを切ってくれたことで、話せなかったことが話せるようになるかもしれないし、傷口が塞がっていくかもしれない。それはすごく、すごく大きな一歩だ。君にとってもHey!Say!JUMPにとっても。


君と同じ場面を共有して笑い合うということは、この先ないだろう。でも、この世界のどこかに君が笑える場所があって、歩む道があるなら、私はここからだけど、見守っていようと思う。


君が大人になっていく過程を誰より見たかったのはHey!Say!JUMPのファンだ。


「別れはまた会う約束」にはできなかったけど、これから「別れは君想う時間」にできる気がする。きっとできるさ。たぶん、それでいいと思うし。それしかできない気がする。


ちゃんと進んでくれてよかった。
ありがとう。そして、がんばれ。





久しぶりにJUMPの出演番組をリアタイした

生きているということ
いま生きているということ
それは終業時刻が近づいてそわそわするということ
残業せずに帰り支度を始めるということ
同期からの「飲みに行こう」というお誘いを断るということ
いつもより大きな声で「お疲れ様」を言うということ


生きているということ
いま生きているということ
それは光くんがかっこいいということ
それはHey!Say!JUMPが仲良しすぎて気持ち悪いということ
それはHey!Say!JUMPが笑顔で歌って踊っているということ


生きているということ
いま生きているということ
頑張っているHey!Say!JUMPの姿を見れるということ
そんな彼らに「私も頑張っているよ」と言えるということ
私の毎日がそれなりに充実しているということ
大好きな人がいるということ
Hey!Say!JUMPが好きだということ






はい、パクリです。大好きな詩人さんなんです。
新生活が始まりました。
ちゃんと大学卒業できましたよ。
ちゃんと入社した会社で研修受けてますよ。

配属地と研修地が離れている関係で、寮生活です。
最初は嫌でしたが、結構楽しい。
寮のルームメイトが高木担だった。
JUMPが引き合わせてくれたのかなって思ってしまうくらい、彼女と出会えたのは奇跡的なこと。
新曲や早売りにあーだこーだいいながら、木曜朝は食堂のチャンネルを奪う…それなりに楽しい。
だがしかし、門限はあるわ、消灯時刻はあるわで、テレビはほぼ見れない。
木曜朝のご飯の時間と週末家に帰ったとき。週末は、あまり時間がなくて見切れずにまた月曜日になってしまう。

消灯時間内に観れるJUMPの冠番組はそもそもない。
少プレへの出演が決まったときから、絶対にリアタイしようと意気込んだ。
研修が終わって、晩ご飯を食べて、お風呂にも入る。
最近、研修内でのテストがあった関係で、定時で帰る人はほぼおらず、研修場所が閉まるまで残ることが暗黙の了解としてあったから、早く帰れるかが微妙だった。

当日なんとか、研修が終わって、誰もいない食堂で全力で晩ご飯を食べ、一番風呂に入り、テレビの前に。
私は洗濯機が作動しないというトラブルで番組の冒頭は見逃してしまったが、2人でテレビの前で、JUMPの姿を見守った。


単純に嬉しかった。
衣装がダサいとか観る前からいろいろ文句言っていたくせに、見終わってテレビの前で2人で泣いて、「生きててよかった〜」と叫んだ。


これ以上、幸せなことってないんじゃないかと心から思った。
Hey!Say!JUMPが好き!って実感が生きてるって実感と重なった。


誰もが知るあの詩をパロってしまったが、私にとって、今の私にとって生きるってそういうことだ。
と久しぶりにJUMPの出演番組をリアタイして思った、というお話でした。



絶対的存在


有岡くん、25歳のお誕生日おめでとうございます。


メンバーの誕生日が近づいてくると、どんなことを書こうか考えるのですが、今回はまず、今の私が思う有岡大貴をいくつかの言葉で表してみようと思います。



"有岡大貴"とは…

「『大ちゃん』世界制覇」

「欲しい言葉をくれる人」

「ファインプレーボーイ」





「大ちゃん」世界制覇


これは、私の個人的な夢です。
この国の人々が、いや、世界中の人々が、「大ちゃん」と呼ぶ世界が来たらいいなと、ずっと思っています。

老若男女問わず「大ちゃん」って呼ばれてほしい。「大ちゃん」っていろんな人から親しまれる存在に、国民的な人になってほしいって、私は密かに思っています。

「大ちゃん」という呼び名で日本を世界を制覇してほしい!世代も性別も国境を越えて、「大ちゃん」って呼ばれる平和で笑顔の絶えない世界を作ってほしいんです。




「欲しい言葉をくれる人」


大ちゃんの言葉には、不思議な力があります。
食レポやロケ先での、斬新な言葉選びや、男兄弟しかいないとは思えないくらいきれいな言葉遣いはもちろんですが、なにより、ファンがJUMPに言って欲しい言葉を、誰よりも先に、きちんと届くように、欲しい言葉をそのまましっかりくれるのは、いつも大ちゃんだったと思うんです。


JUMP結成5周年くらいのドル誌でのファンに向けたメッセージ、JUMPとファンが一番辛かった2013年の「全国へJUMPツアー」での挨拶…なんて挙げたらキリがないし、書き出したら泣いてしまいそうですが、大ちゃんの言葉はいつも私の心に真っ直ぐ刺さります。

「ファンのみんなが自分を作ってくれた」
なんて、言ってくれるアイドル、大ちゃんだけだと思うの本当に。



だから、きっと、大ちゃんのファンは特に、その気持ちに、言葉に、応えたいと思っているに違いないと思うのです。


それこそ、食レポやインタビューでの発言、どんな些細な言葉もしっかり伝えてくれていて、無駄な言葉なく、ストレートに自分の気持ちを伝えて、ファンや周りのことを思いやってくれているのは、大ちゃんのファンでなくても日々感じるし、だからこそ、大ちゃんの言葉には期待をしてしまいます。"大ちゃんなら、欲しい言葉をくれるだろう。"とか、"大ちゃんなら、分かってくれるだろう"とか。
それにちゃんと応えてくれる大ちゃんの存在は、私にとっても支えになっていたし、私でもそうなのだから、JUMPのみんなはもっとそれ以上に、大ちゃんの言葉や存在が支えに、力になっているんじゃないかなと思います。




「ファインプレーボーイ」


昨年の誕生日の記事で私は、大ちゃんのことを「ミラクル」と表現したけど、1年経て訂正させて頂きます。

この1年で気づいたことは、大ちゃんは「ミラクル」じゃなくて「ファインプレー」をしているんだと。

勝手に巻き起こった事象ではなく、大ちゃんがファンやメンバー、目の前のスタッフさんやお客さんを、「楽しませよう」「笑わせよう」「喜ばせよう」と思っているからこそ、起こることなんだと。「ミラクル」ではなく、「ファインプレー」という表現の方が相応しいと気づきました。


ヒルナンデスで「安定の八乙女、不安定の有岡」と言われたことがありましたが、むしろ大ちゃんこそが安定を具現化したような人で、多分、全部仕掛けや仕組みがあると、私は踏んでいます(憶測w)。


とにかく、求められることに応えるポテンシャルは高過ぎてむしろ未知数の域(笑)。
24時間テレビ」で見せてくれた、生放送において一人でコーナーを捌き切った姿が私はとても印象的です。
深夜の競技場で、スタジオに、視聴者に、言葉を届け続け、一人離れた場所で与えられた役割を果たしていて、頼もしいと思いました。


思えば、いつだって、大ちゃんの打順は、ツーアウトランナーなしの時に回って来て、ホームラン打って、ホームに帰ってくる。そんな風にピンチをチャンスに、後ろ向きの風を前向きに、上手く言えませんが、そんな風にいつもJUMPのために「良い」プレーをしてくれる人だなと思っています。


どれだけ大ちゃんに身を委ねても、なぜか絶対に潰れないし、笑ってあの柔らかい声で心に矢を刺す。
単純そうに見えるのに、「好き」って言ったって絶対届かなくて、気づいてくれなくて、気づいてるんだろうけどスルーされるからちょっと悔しくて。


そんな大ちゃんはグループに絶対必要な存在。大ちゃんが居てくれたから、JUMPはこんなに仲のいいグループになったんだと思います。
隣にいる人を輝かせてくれるような、その人らしさを引き出してくれるような。
有岡くんはそんな人なんじゃないかと思います。

ごめん、今だから言うけど、ロミジュリとかスクティとか、なんで大ちゃん?って思ったこともあった。なんで大ちゃんってそこまで露出多くないのにそんな人気あるの?って思ったこともあった。

でも、今は分かります。
だって、私の知っている有岡担はみんな幸せそうだから。辛い気持ちを共有するとか、惰性で担当を続けるとか、そんな気持ちで有岡くんを応援している人を見たことがない。
みんな有岡くんのことを好きになってよかった、幸せだと思っているような気がするし、相対的なものでなく、絶対的に人を幸せにできるのは、有岡くんの最大の武器だと思うんです。

これからも、周囲の人を明るくさせて、安心させて、持ってるものを最大限発揮させてあげられるような、人の色を殺さず、有岡くんらしさもちゃんと共存させられるような、今の有岡くんの良さを大事にして、変わらないでいてほしいと思っています。


上手くまとまらなかったし、感動的なことが書けなくて申し訳ないですが、有岡くんにはそう在り続けてほしい。そんな風に思います。
少し過ぎてしまいましたが、25歳のお誕生日、おめでとうございました。