門限の9時

ここに無い魔法 帰りの電車

君に届かないでほしいこと

 

私が最初に耳に違和感を感じたのは、2017年頃だ。
周囲の音が聞こえにくい。立ったり座ったりするだけで酔う。しかもそれが情緒と連動している。
「嫌だな」「きついな」「しんどいな」といったようなストレスを感じたときに、耳が塞がるような、飛行機に乗っているときのような感覚になったり、「こうしなきゃ」「やばい」とプレッシャーを感じたときにめまいがしたり。特定の人、作業、状況において耳が変な感じがするようになった。

当時のことはこちらの記事にも書いているが、精神的にとにかくきつい時期だった。
職場での人間関係や業務負担の多さやプレッシャー、将来への不安など要因はひとつに限定できないのだが、過剰な負荷が様々な体調不良になって表れた。その中で一番恐怖とやばさを感じたのが耳だった。
聴覚は、当たり前のように勝手に鼓膜が震えることで機能していた器官だったので、精神状態や体調によってパフォーマンスに影響が出るとは思いもよらなかった。だからこそ、耳の不調はいよいよ自分自身への警告だと感じて急いで病院に行き、上司が休ませてくれたのをとてもよく覚えている。

現在は聞こえにくく感じることが時たま起こるものの、精神の疲弊が改善されると共に、上記の症状が出なくなったので、やはりあれは精神的な不調からきたものだと再認識する。

 

 

 

先日、私の自担である八乙女光くんが耳の不調でお仕事を休止することを発表した。
数年ぶりの舞台も降板することが決まった。
グループの15周年に合わせ、この先決まっていた仕事もいっぱいあったのだろうなどというのは容易く想像できる。

自分のことを思い出した。原因が分かり、解決したことで、今私は自分が罹患したこの病気に対しては楽観的なイメージを持っているが、当時の精神状態はやはり苦しく不安で辛かった。

今回の休止を光くんはどんな思いで発表しただろう、どんな気持ちで決断しただろう、周囲に相談しただろう。
考えても仕方ないとはわかっていても考えてしまう。
自分自身の経験も重なり、いつから不調を感じていたのだろう。耳に不調を感じるまでに、どんな違和感をどんな悩みを抱えていたのだろう。
正解を知る術もないのに考えてしまう。

 

仕方ないと勝手に理解したように片付けるというのもおかしい。何様だって話だ。
今までずっと、デビュー以来、いや入所以来働き続けてきた人じゃないか。「休まず」「変わらず」「これからも」を一方的に期待し要求しているようでおかしな話だ。

そもそも光くんは、こういうふうに人に心配をかけたり、迷惑をかけたり、悩ませたり悲しませたりするために決断したわけではないし、そうさせてしまうことを自らが選ぶことを嫌がる人だと思う。
だからこそ、ずっと続けてきたことを中断すること、立ち止まることはどれほど怖いことだろうとも思う。
メンバーや共演者の「安心して休んで」という言葉がそれを物語る。

だからこそ、今回のことを受け入れるとか待っているとか、ましてや偉そうに仕方ないと思う自分がとても嫌なのだ。

 

八乙女担になる前、光くんのことを「いつでも明るくて元気で、器用になんでもこなして、芸能人になるべくしてなった人なんだな~」と羨望の眼差しでみていた。そんな私が八乙女担になろうと思ったきっかけは、「この人は人よりたくさんのことを想像して、たくさんの人を思いやって、誰かの代わりに多くを感じて表現するということに長けている人であり、それは才能だけではなく、努力と思考力によって積み重ねてきたからこそのものだ」と感じ取るほど、彼の本当の姿に興味を持ったからに他ならない(一文が長い)。

そんな光くんの、簡単に言えば「器用貧乏さ」を私は信頼し、愛してきたつもりでいたのだが、またしても八乙女光の魅せる虚像に慣れきってしまっていたことに、今回の活動休止の一件で気付いたのだ。
八乙女担になる前のように、無意識のうちにタフで完全無欠のイメージを持ち、そうすることで八乙女光から安定感や安心感を見出そうとしていた。
どんなときも情緒やメンタルが安定している、ステージやカメラの前でのパフォーマンスのクオリティもそう。ビジュアルもそう。
だからこそ、ファンだけでなく業界、事務所も八乙女光を求めるのだ。八乙女光の仕事が絶えない理由にもつながる。

その安定感・クオリティは光くんの才能や能力、運やセンス、アイディアだけではなく、入念な準備と練習、深く多角的な思考・想像、配慮があるからだと私は思っている。
コンサートや舞台期間中は、食事や飲み物にもとてもこだわるエピソードを各媒体で見聞きする。日ごろから健康に対する意識も高い。習い事や学びに費やすことも惜しみない。
そういったことを息するように生き生きと取り組むように見える一方で、他者からストイックと表現されることもある。
披露したギャグがスベっても果敢に場を盛り上げようとする強心臓がある一方で、人に寄り添うやさしい歌詞や心を動かす芸術作品を作り出す豊かな感受性もある。
人々は、憑依型だとかアーティスト性があるとか、個性的とか各々の言葉でそれを噛み砕いている。
ひとりの人間がこんな振り幅を抱えつつ、敵を作らず誰のことも責めないのに、たくさんの人を笑顔にし人の気持ちをプラス方向に動かしてきた。

 

そんな人が、今不調なのだ。

精神的支柱のピンチに、途方に暮れそうになっている人間は私だけではないはずだ。
ああ、私は本当に光くんを頼りにしている。支えてもらっていたんだ。
光くんが当たり前にカメラの前で明るくいてくれることが、こんなにもありがたいことだったなんて。

 

光くんの実際の健康状態は、発表されている病名だけでは把握しきれない。
もしこれが上記の私のような原因で、光くんのなにかが悲鳴を上げているのなら、心に重いものがあるのなら、それは最優先でケアすべきことだ。
こちら側としては、詮索するなどもちろんしたくないし、「待っている」とか「ゆっくり休んで」とか、そういうことも押し付けたくない。
いつも、光くんがその場、その仕事をただ楽しんでいるように、そんな姿で我々を楽しませてくれているように、なんにも押し付けたくない。休止に対するどんな気持ちもどんな反応も知らなくていい。


っていうか、シンプルに健やかでいてくれという気持ちだ。
身体が健康であること、心が重くなく自分のことと好きなことと大切な人のことを考えられる隙間があること、好きなものを好きなだけ飲み食いできること、人間が生物として生理的に欲してしまう欲求は、欲求のままに満たせる状態でいてくれ。感情を全部自分のために使ってほしい。才能とか努力とか魅力とかそれ以前に。

そんなことを願う。

いつももらってばかりの私が光くんを想って考えられることはそんなことだ。

 

 

とにかく、詳しくは知らないが、この場を借りて言わせてもらう。世界や社会は誰かが少し休んだって普通に回る。「あなた」が休んだ分、誰かが埋め合わせて大変になるなんてことはそうそうない。
そう思うのは、頑張っている「あなた」だけだ。

他人は、「あなた」と同じようにあなたの頑張りも見えない分、不調も見えないものだ。

良いことも悪いことも「あなた」だけ特別に降り注ぐなんてことはない。

あなたも、あなたも、あなたも、そうだよ。


「あなた」が立ち止まったって、人は死なない、GDPにも株価にも影響ない。

いい意味で全部そんなもんだよ。

だから、楽しいことを考えられる。クリエイティブなことやエンターテイメントが活きる。だから、世界が変わる。変わる気がする。そう解釈できる。

 

私はそう思う。

 

 

光くん、今日はどんな1日でしたか?何食べましたか?楽しいことや面白いことありましたか?

毎日それだけ思って、望んでいます。

 

私が思うことでした。誰にも届かなくていいし、光くんに届かないでほしいことでした。

また推敲します。

 

尚、記事内の症状につきましては、あくまで私の例です。

私の場合は、聴こえにくいなどの症状に対してのつらさや難しさはあまり感じませんでしたが、そもそも耳に不調がでるほどの精神状態なので、当時のことを思い出してしまうとやばいです。なので、光くんもそういう原因である可能性がゼロでない以上、我慢していたかもしれない時間を必要以上に称賛し美談としたり、復帰後に掘り返すようなことはしないでほしいと思います。)