門限の9時

ここに無い魔法 帰りの電車

Hey!Say!JUMPと15年

 

親愛なるHey!Say!JUMPの15周年という記念すべきタイミングに、久々のブログ更新を企てていたが、数ヶ月の間、良い書き出しが思いつかずにいた。
当初、結成日の9/24に投稿しようという計画だったのに、到底間に合わない。気づけばデビュー日をも過ぎた。


15年を数ヶ月でまとめられるわけがない。
15年はとても長い。若くしてデビューしたHey!Say!JUMPの15年はとても長く貴重でもあった。
 

 

 

 

 


Hey!Say!JUMPのアルバム「FILMUSIC!」の発売と収録曲が発表されたとき、クレジットの中で最も興味を引いたのが、「秋元康」の文字だった。

久しぶりの馬飼野楽曲に、秋元康の詞がついた曲をJUMPが歌う。
思ってもみなかったような、でも心のどこかで空想していたような、なぜこのタイミング!?と疑問に思うような、でも古き良き正統派アイドルを踏襲するグループについに訪れたタッグだと納得するような、不思議な気持ちになった。


曲のタイトルは「人力飛行機」。
なんと昭和臭い。いや、漂うレトロ感(汗)。
秋元康がどれだけHey!Say!JUMPを知っているのだろう。Hey!Say!JUMPの楽曲にどんな言葉をあてがうのか。
なぜか上から目線で、一方で「早くこの曲を聴きたい」とアルバムの発売を楽しみに思える魅力も感じていた。

 

 

 

 


15年前、「メンバー全員が平成生まれ」という紹介文句は世間に相当の衝撃を与えていたように思う。
平成に元号が変わり19年の年月が経つも、日本経済を支える生産年齢人口の9割以上が昭和生まれで構成されていたため、平成生まれはまだまだ稀有な存在であった。平成生まれ=子どもという世代がデビューする=プロの世界で仕事するということに驚く大人が多かったように思う。
蓋を開ければ、想像通りの子ども。最年少は当時小学6年生、中学生メンバーも成長期・声変りが未到来だということが見るだけでわかるほど小柄で華奢な姿。フレッシュを通り越して未完成で未熟な姿で、どこに行っても場違いな子どもの集団であった。
ネット上では「こんな子どもたちのCDにお金を払うファンなんているのか」「ジャニーさんもついにボケたか」などの罵詈雑言を見かけることも多かった。


それまで、「ジャニーズ=カッコいい憧れのお兄さん」というイメージを持っていた私(Hey!Say!7とタメ)にとっても、「もう同世代がデビューするのか!」と衝撃を受けたことをよく覚えている。

 

Hey!Say!JUMPの結成・デビューは世間からも特に歓迎されていなかったし、ジャニーズファンにとっても悲劇であったように思う。
ジャニーズJr.の複数のユニットからメンバーが選出されたことで、人気ユニットの事実上の解体が発生。残されたメンバーのファン、ユニットのファンには到底受け入れられるデビューではなかった。
そういった経緯を知らない新規のファンに対する風あたりも強かった。
それを封じ込めるかのように、UMPのTVCMにバレー組の先輩方に出演していただいたり、東京ドーム単独公演最年少記録を持たせたり(実際はJr.と共同公演なんだけどね☆)、事務所を上げてHey!Say!JUMPを世に放とうとしていたのだなと今になって思う。


それほどまでにグループそしてメンバー個々がなんの価値もイメージも持たない「未」な状況から走り出してあっという間に15年が経った。

 


振り返ればいろいろなことがあった。
グループとしての特技や個性、メンバー個々の個性を見つけるために、とにかく数を重ねる中で試行錯誤していたツアー。
明らかに伸び悩んで苦しいときや応援していてもどかしいときもあった。


メンバー同士の仲違いが、仕事にも影響が出てしまう幼い時期、他と比べたり先輩グループと比べたりして落ち込むような繊細な時期もあった。


もちろん、飛び上がるほど嬉しいことや、「もっと行け、もっと行ける」と上昇気流に乗っていたこと、新たな挑戦に胸を躍らせたことも多々ある。


思い出を語れば、枚挙にいとまがない。
15年はそれほど長く濃い時間だった。

 

 


Hey!Say!7の面々と同い年である私の15年も、それはそれで大事な15年だった。
Hey!Say!JUMPも確かに前を向いて歩み続けていたけれど、私は私で確かに生きてきた。


私の15年は、Hey!Say!JUMPの15年にしっかり紐付けることができている。
それくらい、私の人生にピッタリと張り付いてる存在とも言える。


昔は、勉強も遊びも手につかないくらいHey!Say!JUMPのことを考えていたが、
今は「Hey!Say!JUMPの時間」「Hey!Say!JUMP用のお金」とHey!Say!JUMPのための時間やお金を確保している。
どんなに自分の人生を生きるようになって、も確保したい大切でなくせないものであるとも言えるし、確保しなければ毎日の生活から容易に押し出されてしまうとも言える。

 

でも、15年ずっと変わっていないのは、Hey!Say!JUMPの活動や成長を目撃し続け、Hey!Say!JUMPの発信を受け取れることをとても楽しく思っているということだ。
それを続けていたら、Hey!Say!JUMPのシングルやアルバム、ドラマなどの作品を思い出すとその頃の自分の状況や気持ちが思い出せる。人生のチャプター的な存在になっている。

 

Hey!Say!JUMPもグループとしての成長や、メンバーの脱退、休業など大変化をしながらの15年だったと思うが、私自身に目を向けても、中学生からアラサーになったし笑、社会人になってからも転退職した友達の方が圧倒的に多いし、既婚子持ちになっている人も多い。私だって事務職から営業職になったし、K-POPにハマったと思えば最近はINIにハマっているし、引っ越しもしたし、私の方がよっぽどいろんなことが変わっている。

 

 


「君と同じ時代に生まれてきたボクらはツイてる」
今からちょうど5年前、このフレーズに死ぬほど胸が高鳴った。そしてこれでもかとこの歌詞を噛み締めた。

 


Hey!Say!JUMPが存在する世界を生きていること
Hey!Say!JUMPと同世代に生まれたこと
Hey!Say!JUMPに出会えたこと
Hey!Say!JUMPを好きになったこと
Hey!Say!JUMPを最高だと思える人間だったこと

 


こんなふうに、自分自身のことや自分の感覚そして人生を、全面的に肯定できる状態を幸せと言うのだろうなと思う。
Hey!Say!JUMPがいたから、私はこんなに幸せな人生を歩めている。
Hey!Say!JUMPと生きてこれたから、過ぎたすべての時間が大切に思える。
良い思い出も苦い思い出も、Hey!Say!JUMPの曲や活動に全部紐づいて、
「あのシングルのとき、私はこんなことをしていたな」「あのツアーのとき、プライベートはこんなだったな」と振り返ることができる。

 


全てに「〜ではなかったら」を付け足すと恐ろしくて震える。
でも、生まれた時期もHey!Say!JUMPの存在を知るに至ったことも全てが偶発的な事象である。
ひとつでも掛け違えていたら、今とは全然違う今であったことは間違いない。
だから、特に誇れることのない私の人生なんだけれど、この人生で良かったと思えるし、嫌いなところなんていっぱいあるのだけれど私が私で良かったと思える。
 

 


そして、私はきっとこれからもHey!Say!JUMPの活躍を楽しみにしていくと同時に、私自身の人生に対してもいろんな期待や不安を思い浮かべていくだろうし、いろんな場面でHey!Say!JUMPを重ねるだろうし、そんなふうにしながら不幸せにならずに絶対に生きていくんだと思う。
予想できない将来に不安を感じることもあるけれど、Hey!Say!JUMPも同じ時代を生きていくだろうと思ったらそれだけで生きていく価値があると思える。

 


もはや好きとか嫌いとか、応援するとかしないとか、その次元ではない。
居てくれないと困るし、勝手にHey!Say!JUMPとこれからも生きていく。そう思っています。

 

 


15年、よくぞ歩き続けてくれました。横並びの強さを魅せ続けてくれました。最高に素敵なグループになってくれました。
デビュー当時、櫻井翔くんが「Hey!Say!JUMPらしさについてメンバーとたくさん話し合って、Hey!Say!JUMPらしいグループになってください」とコメントをくれたことが印象に残っている。
振り返れば、そんな15年だったと思います。「もしあの時ああしていれば・・・・」という要素がない、どこをとってもJUMPらしい、JUMPでなかったら歩けなかった、そんな15年だったと思う。

 

 


「鳥は一体 いつ気付くのだろう 空を自分が飛べるってことを」


歌い出しのこの一節が、この曲の主題だと、作詞の秋元康先生が語っていた。
この曲のテーマは「可能性」だと。

 

「夢は思っているだけでは叶わない。何かしなくてはいけない。鳥がいつ飛べることに気づくのか、羽を羽ばたかせたら飛べると気づくのかと同じように、羽をパタパタさせる、助走で走ってみるとか、何かした時に夢に近づくと思う。」

(2022/9/24放送 らじらー!サタデー より)

 

 

鳥が自分の飛べる可能性に気付いて羽ばたくように、自分の可能性や能力にいつか気づき、羽ばたいていくために生きている、頑張っているのではないか。私はそんなふうに解釈した。

 


このフレーズを初めて聞いたとき、「紛れもなく、Hey!Say!JUMPが歌う曲のための歌詞だ。」と感じた。


デビュー当時、子どもだったHey!Say!JUMPに、子どもになにができるんだと言わんばかりの心無い印象を持つ大人が多かったが、
同世代の私は私で、「なぜ、中高生で自分の将来を決められるのか?」と心の底から疑問に感じていた。
近年、解散や事務所を離れる先輩グループが多いが、当時はデビュー=終身雇用くらいに感じていた。少なくとも10~15年はグループで活動するのが普通だと。
ある程度、有名になってしまったら簡単に一般人に戻って普通の生活を送るという選択がしにくくなるのにも関わらず、どうしてHey!Say!JUMPのメンバーは自分の人生を、将来の方向性を、こんなに若くして決めることができるのだろうと、文系・理系も決められない私は思っていた。


人力飛行機」を聴いて思ったことがある。
Hey!Say!JUMPのメンバーは、ジャニーズに入って、もしくはジャニーズを志したあたりから、潜在的に自分の可能性に気付いて夢を見つけたのかもしれない。
または、ジャニーズ以外の可能性もあったはずなんだけど、他の可能性を検証することなくここまで来ただけなのかもしれない。
またどこかで、他の可能性に気付くことがあるかもしれない。それは怖いことになるかもしれないし、嬉しいことになるかもしれない。


とにかく今は、Hey!Say!JUMPのメンバーそれぞれがアイドルという可能性に気付いてくれて、アイドルという空で羽ばたいていてくれて本当に有り難く思う。
そして、これからもその大きな空で自由に羽ばたいていてほしいと思う。自由に羽ばたける空が広がっていてほしいと思う。
いつか、自分の新たな可能性に気付くかもしれないけれど、気付かないかもしれない。
どうであれ、自分の望むように生きてほしいと思う。自分たちの望むことを叶えていってほしいと思う。
そしてそれが、私の空とずっと繋がっていればいいと思う。まあ、私はそもそも羽ばたく必要はないと思っているがね(捻くれ)。

 


P.S. 
12/17の名古屋ドーム。暗転と同時に、無声のJUMPコールがペンライトの光に変わる。その景色に見惚れつつ、一瞬の間にコンサートの始まりに備えて、目、耳、心、すべてを整える。準備が整ったのか整っていないのか分からぬまま、ステージに登場したメンバーの中に最愛の自担の姿を確認して涙を流す

 


そんな日を夢見て居ましたが、どうやら叶いそうです。
自担の顔が見れるということがこんなに嬉しいことだったなんて初めて知りました。


「推しは推せる時に推せ」
友人の口癖ですが、推しを推せる幸せ、推しが表舞台に立つ仕事を選んでくれていることの幸せ。
そんなものを感じています。


8人で15周年を過ごせてよかった。
光くんが元気そうでよかった。
無理はしないで欲しいけど、やっぱりHey!Say!JUMPにずっと会える未来が続いて欲しい。