門限の9時

ここに無い魔法 帰りの電車

いつかまたね交点の先で

私は、何者でもない。




高校3年のクラスメイトが、小説家になった。
聞けば、あの国民的小説家がデビューを掴んだコンテストで大賞を受賞し、デビューという運びになったという。
その知らせは、本人から、高校3年のクラスLINEで聞いた。

このクラスLINEが最後に動いたのは、確か11月だ。その前は6月頃に動いていた。
どちらもふとした話題で動き出し、途中で担任が近況報告をしろというので、軽く近況報告会が始まる流れだった。
私は、6月も11月も、みんなの近況報告をただみているだけで、反応することもしなければ、自分の近況報告をすることもしなかった。


彼もそうだ。
高校時代、あまり目立つ方ではなかった彼は、小説家デビューの知らせをしてきた時も、「高校時代、〇〇と呼ばれていた・・・です。」とまず自分の紹介を最初にしていたし、同じく目立たたずに教室に生息していた私も、それを見て初めて、このLINEにちゃんと入っていたんだと思ったくらいだった。近況報告の流れに乗ってきたことなどない。

そんな彼の知らせをクラスメイトは祝福し、本人のいないSNSで誇りだと言っていた。担任も、「教え子から有名人が出来て嬉しい」と言っていた。私も、もちろんすごいなと思った。高校時代ひと言だって話したこともないくせに、「おめでとう。絶対買います。」なんてメッセージも送っていた。


「良い報告」や「面白い報告」をすると人は喜ぶ。
私は、いつだって「良い報告」ができない。

「良いこと」をしていないから。
「面白いこと」をしていないから。


彼は、小説家になっていた。
近況報告をしていたクラスメイトたちは、留学生になっていたり、教員採用試験や諸国家試験の合格者になっていたりした。

でも私は、何者にもなれていない。



私は、彼から聞いた彼のペンネームを検索した。
なんだか、彼に合っていない名前のように感じる。本名が一番しっくりくるような気がする。
彼のこと、なんにも知らないくせに。

彼のインタビューページに辿り着いた。
プロフィールで、現在どこに住んでいるのかを知り、どこの大学に通っているのかを察した。
へえー、めちゃくちゃ頭良かったんだ。

彼のインタビューを読んだ。
「小説を書き始めたのはいつ?」という質問に、「小学6年生くらいから書くことが趣味になって、高校生からは習慣になっていた。」と答えていた。
知らなかった。
私が友人と「昨日の謎ディ(翔さん主演のドラマ「謎解きはディナーのあとで」)見た!?」と騒いでいた教室で、気になる男子が自販機で買ってくるものを毎回密かにチェックしていた昼休みに、彼はずっと書くことに夢中になっていたのだ。


私は何者なのかという問いに、唯一答えられるものがあるとしたら、Hey!Say!JUMPのファンであるこということだろう。
高校時代の彼が既に小説を習慣的に書いていたように、私もHey!Say!JUMPのファンをずっと続けてきた。


だが、形になったものはなにかと聞かれたら、Hey!Say!JUMPが売れ始めているということと、Hey!Say!JUMPについて書き始めたこのブログの読者が日々増えていることくらいだろうか。


どちらも嬉しいことだが、私自身が成し得たことは、そこにはない。
ファンは、肩書きとも認められないし、どれだけ一生懸命にやったって自分に返ってくるものはない。


結局、高校時代から私は変わらず何者でもないままなのだ。だから「良い報告」ができないのだ。


私は、内定をもらった会社の最終面接で、
「私は今、何者でもない」という話をした。
なぜなら、私は学生だから。
社会人と学生で大きく変わることはなんだ。
社会人になって初めて、「人」という肩書きを背負うのだ。
社会に出て初めて「人」になるのだ。
だから、私は今、何者でもない。
何者でもない自分をダメだなんて思わなくていいと思っている。
何者でもないからこそ、何者にでもなれる。
何者かになったとき、「人」という肩書きを背負っても恥ずかしくない生き方がしたい。
そんなような話をした。


当時は、良い事を言った気になっていたが、今になって、それは逃げだったと思う。甘えだったと思う。
私は、私の人生を生きねばならない。
私の人生を生きるのは、私しかいない。


アイドルは夢を叶えてくれるけど、それは私の夢じゃない。アイドル自身の夢だ。そこには夢があって、私はそれを見ているだけなのだ。

ずっとアイドルの夢は私の夢だと思い続けて生きてきたがそんなはずないのだ。

私が私の人生を生き、何者かにならなければ、ずっとただのジャニオタのままだ。
何も成さず、何も叶えず、何も掴まず。
今まで、成し遂げたいものも、叶えたいものも、掴みたいものもなかったからそれで良いと思っていた。


でも、今は違う。
自分の中に、成し遂げたいことや叶えたいこと、掴みたいものが、大小様々あることに気づいた。
そしてそれは、アイドルが夢を叶えてくれることで、アイドルの努力する姿で、埋め合わせのできるものではないということにも気づいた。


自分の夢を叶えるのは、自分しかいない。
今は強くそう思う。


私の大好きな曲の中に「いつかまたね交点の先で」という歌詞があるが、まさにそれだ。
私とHey!Say!JUMPの歩く道が、同じはずがない。交点だっただけだ。
ふと見つけたとあるJUMP担の方のブログにあった「運良くデビュー前のJUMPを好きになった」という表現が刺さった。
そうだ、私は運が良かったんだ。
運良くHey!Say!JUMPと交わっていたんだ。しかも、こんなに長く。強運すぎる。
間違っても運命なんかじゃないんだ。


この先、ずっと交わり続けるには、なにかを意図的に捻じ曲げないと無理そうだ。
私はずっと捻じ曲げてきた。捻じ曲げてでも交わっていたかった。でも今は捻じ曲げたくないと思うものがある。私は私を生きてみたい。Hey!Say!JUMPにも誇れる何者かになりたい。今、そう思うのだ。





私は無類のココア好きだ。最寄りの駅前にドトールがある。ドトールのココアはとても美味しい。

ある日、その日の用事が午前中で全て終わった。寒い日だった。電車の中でふと、ドトールのココアが飲みたくなった。店だと落ち着かないので、家まで持って帰りたかった。じゃあ、お昼の時間だし、近くのパン屋さんでココアと一緒に食べるパンを買って帰ろうと考えていた。

ドトールは駅の南側にある。私の家は駅の北側にある。駅から家までの道中にパン屋さんがある。
普通、駅からドトールに行って、パン屋に行って家に帰るのというのが効率が良いと考える。

でも、一番最初にココアを買ってしまうとココアが冷めてしまう。
ココアを出来るだけ冷まさずに帰りたかったので、私は、遠回りとは分かりつつ、まずパン屋に行ってからドトールまで戻り、足早に家に帰ることに決めた。

普段、遠回りなんて面倒でしないが、この日はなぜか、遠回りしてでもココアを出来るだけ温かいまま持って帰りたかった。


冷ましたくなくて遠回り。
「好き」も同じでしょう。


ずっと好きでいたいから、少し遠回りしようと思う。


私は今そんなふうにHey!Say!JUMPを思っている。
さみしいかな。

でも、そっちだって何年か前に言ったみたいに「行かないで」なんて呼び止めてくれないでしょ。
「行かないで」って言われたら考えるかもしれないよ。少し躊躇うかもしれないよ。
でも、私だって「待って」なんて言えないし、言いたくない。
「待って」って言ったって「振り落とされないように」って返されるだけだもん。待つ気はないことくらい分かってる。

君たちも私も今、前を向いている。少しでも前に進みたい。その方向は少し違うかもしれないし、歩幅も違うかもしれないけど、一歩踏み出したいと思っているのは同じなんだから、今は迷わず、互いに「行く」時だと思うんだ。



だから、「行かないで」とか「待って」はなしで。
「いつかまたね交点の先で」「良い報告」をしよう。




「輝いて もう泣かないで
この素晴らしい世界でほら 君のことを見つけた
いつだって そばにいるよ」


「消えないよ 目を閉じたって
たとえば君が笑うだけで 僕は僕でいられた
いつだって ここにいるよ」


最近、ずっと聴いている曲。
歌詞全部がそのまま私の気持ちと重なる。
何かが変わるわけではないし、何かが終わるわけでもないし。


Hey!Say!JUMPの夢を見ることを過去形に
Hey!Say!JUMPの夢ももう夢じゃないから

自分の夢を見る
自分の夢を自分で叶える
そういう生き方をしたい

気がする



私は、何者でもない。
何者かになったとしても、ただのHey!Say!JUMPファンをやめる気はない。
でも、ただのHey!Say!JUMPファン以外の何者かになりたい。

今頃?いや、まだ22だ。
Hey!Say!JUMPとの時間だってたったの8、9年だ。
ずっと続いていく、ずっと生きていく。
私は私を。Hey!Say!JUMPはHey!Say!JUMPを。


だから
ここから そっと想い続けているよ


だから
いつかまたね交点の先で