門限の9時

だんだん未来広がってく

未送信ボックスのガラクタ

眼下の朝日

 寒くて布団から出られない朝が続いている。秋まで起きていた時刻の10分後に「やばい」と飛び起きて、なんとか捻出するのは、たかが10分の睡眠時間である。平日はそのたった10分を死守するために、駅までの道をダッシュする等の犠牲を厭わないくせに、休日は、「時間が勿体無い」と平日とさほど変わらない時間に起きて家を出る。そんなチグハグな毎日だ。
 大学時代、社会人になる自分が想像できなさすぎて、大学を卒業したら死ぬんじゃないかとわりと本気で思っていた。20歳になる前も、高校卒業する前も、節目節目の先はいつだって、行き止まりか崖になっているような気がして仕方なかった。そして、時間は私の恐怖心を察する様子なく、そこに私を連れて行った。
 あの時、行き止まりか崖になっていると思っていた未来は、今となって私の元にある。実際、未来は行き止まりにも崖にもなってなかったから、人生には、行き止まりも崖もないのだと思う。そんな道中で、私が思い浮かべてたいくつかの未来の中から、たった1つを選んだ結果として今があるのだなと思うと、当時、訳が分からないなりに、悩んでもがいて期待して諦めて選んだ未来が、今心から「良い」と思えるのは幸せなことだと思う。たとえ、その今が笑っていられる出来事ばかりでなかったとしても。
 毎日楽しいことより嫌なことの方が多い気がする。試行錯誤の連続だ。でも、投げ出したい、逃げたいなんて思ったことは今のところ一度もない。10分長く寝た分、どこかで急いでいる。どこかで楽しい思いをした分、それだけ辛いことや悲しいことだって起きる。
 そんなふうに過ごしていると、「時間はあるようでない」という、どうしようもない焦燥感に駆られることが増えた。「まだ若い」「人生まだまだこれから」と年長者は言うけれど、夢見て叶える時間を加えたら時間はないなあと思う。行き止まりも崖もないと信じて、夢や野望を持ってしまうと、さらに叶えたいなんて思ってしまうと、私は私の所持している時間の少なさにいつも愕然とするのだ。愕然としている間にも時間は過ぎる。時間を消費し切った人にとって、とある定点は、ちっぽけなものかもしれないが、時間の到来を待つ人にとっての定点はとてつもなく大きい。
 そんなことを、毎朝駅まで向かう坂道を足早に下りながら、朝日を見下ろして考えている。高層タワーや看板たちが朝日に照らされているのを遠目に見て、今日も私はこの街で生きるのだと思うのだ。生まれ育ったこの街が、好きかどうかは分からない。嫌いではない。でも、大好きだとも言えない。でも、その高層タワーや看板のふもとに紛れ込むことが私の日常で、嫌と思っている時間すら面倒だ。冷たい朝の空気が気持ち良いと感じたら、今日はきっと「良い」1日だ。

 

イヴ・サンローランのルージュ

「ささっと運命の人に出会いたい」
友人がこんなことを言った。今の自分の気持ちが見抜かれていたのでは、と思うくらい、自分でも言葉にできずにいたごちゃまぜな気持ちが、言葉になったような感じがして、なんだか無性にグッときた。10代の頃の私だったら「ささっと出会えたら運命じゃない!」なんて、真面目な顔して言っていただろうと思う。けれど、今の私にこの言葉は、お高い化粧水なんかよりよっぽど勢いよく染み込んでくる。ひたーっと染み込んでなんだか心地よいのがちょっと不思議だ。
早急に、運命の人を探しているわけではない。上手く言えない。でも、今私は、何を探してるのかわからないまま、ずっと何かを探している。何を知りたいのか、何を求めているのか分からないのに、何かに対して答えを求めている。上手く生きたいのに毎日思うほど上手くいかない。がんばればとか、努力すればとか、それが一番楽で近道なのかもしれない。頭じゃ分かってるけど心はそうじゃない。ただ、ちょっと先が知れたら、答えが知れたら、気持ちが軽くなるのになと思ってしまうだけ。運命の人が誰か教えてなんて言わないから、いるならいる、いないならいないくらい教えてくれてもいいじゃないと思う。あいつが私にとっての運命の人じゃないなら、ああ、そうですかって割り切って、ただの友人として付き合えるのに。
そんなことを思いながら、とある日曜日、イヴ・サンローランのルージュを買った。売り場で試しにつけてみた色が、前から欲しいと思ったいた色味そのもので、一瞬で気に入った。
別に、イヴ・サンローランのルージュに憧れていたわけでも、欲しいと思っていたわけでもない。この時、私の心を占めていたのは、浮わついた気持ちではなく、悔しいとか悲しいとかそういう気持ちだったように思う。買った直後、嬉しさより、やってやったという気持ちが優っていた。微々たる自尊心をなんとか保つにはイヴ・サンローランのルージュを買うしかないと思ったら、売り場に自然に足が向いていた。私は、イヴ・サンローランのルージュを買える女です。ただそれを証明したいだけだった。
帰りの電車で、買ったばかりのそれを唇に滑らせ鏡を覗いたら、なんとも鮮やか且つ若々しすぎる発色で、それが一瞬わざとらしく感じた。いつかこのリップが似合うようになれば、さらっとつけられるようになれば、あいつを「私に似合わない」と、私の方からこっ酷く振ってやれるかもしれない。そんな気がした。
昨夜の出来事を思い出すとやっぱり悔しい。悲しい。いや、寂しいのか。この気持ちを忘れたくなくて、瞼の裏に焼き付いた光景を何度も脳内再生をしながら口を噤んだ。

好きでもない女と、5回も6回も2人で遊んだり出かけたり食事に行ったりすんのかな、普通の男の人って。しばらくそういったシチュエーションに疎く生きてきたせいで普通が分からない。最初誘われた時は戸惑ったけれど、2人でご飯くらいならあるだろうよ、と今なら思う。もしかしたら遊びに行くことも、その人にとってはそれくらいと思うことなのかもしれない。でも、私はそうは思わない。それも1回や2回の話ではないし、お誘いはいつも向こうから。自惚れだとしても期待してしまうのも無理はなくないか。
3回目は、家にも行った。行ってしまった私も軽いかもしれないけれど、そんな軽々しく、付き合ってもない女を家に呼ぶのってどうなの。っていうかなんなの。借りたはいいけど観れてないDVDを観ることが目的で家に呼んでるんじゃないよねってことくらい、口実ってことくらい、いくら恋愛ご無沙汰してたって分かるよ。イージーモードの漫画の読み過ぎ、ドラマの観過ぎだったとしても、そういう解釈というつもりで着いて行ってるってそういうことだよ。
5回目は、クリスマスイブだった。クリスマスイブに会うって、会おうって話になるって、OKするって、そういうことじゃないの?そういうことでしょ?こっちは一応クリスマスだからと思って、当たり障りのないプレゼント用意して行ったけど、そっちだって用意してくれてたじゃん。休みの日に新宿高島屋行って、あの高級感しかない婦人小物フロア行ったんでしょ。なにかあげようと思ってくれて、なにをあげようとか考えてそこに行って、クリスマス用のラッピングしてもらったんでしょ。
で、なんなのさ。このなんだかよく分からない関係をどうにかしようって気はないのね。付き合う気はないってことなのね。こうやって、はっきりしない男にモヤモヤしている。でも、それだけじゃない。
あの衝動は、あの悔しくて悲しくて、寂しい気持ちは、そんな男とのそんな関係を壊すのが勿体ないとか思ってしまって、潔く「どう思ってんの?」「私は、付き合えたらいいと思ってるけど」「あんたがここまで状況証拠並べて、一番肝心なことを言わないのはなぜ?」と一言も言えなかった自分に対する失望だ。同い年の男一人もその気にさせられないってことだ。「こいつが仮に本気じゃなかったとしても、人生経験と思って1回遊ばれてみてもいいんじゃね」「『お前何本気になってんの』って言われて傷ついてみようよ1回くらい」と、頭では強気で、誘いに乗って会い、挙げ句の果てに部屋まで着いて行き、クリスマスイブにも会ったくせに、結局「この人、私のこと好きなのかどうかわからないから、これ以上自分からは足を踏み入れないようにしよう」って、予防線張って誘われるのを待つ愛されたいだけの主義主張のない女になってることなんだ。
今思えば、イヴ・サンローランじゃなくたってよかった。シャネルでもディオールでも、ポーチからそれが出て来たら、ちょっと構えてしまうような、「戦闘態勢準備!」と無意識に脳内が思ってしまうような、そんな強そうなブランドならどこでもよかった。冒険できないナチュラルメイク止まりじゃなくて、ハッタリでも、自分の意思で高い化粧品を買うことで、理想くらいちゃんと持ってます、なりたい自分像あります、自分ありますっていう人を装いたかった。装える気がした。そうやって、突き放して、本気だったらまた誘ってくれるだろう。そんなふうに、あいつを試すふりして、自分を守っていた。ルージュに罪はない、私がこのルージュを世界一カッコ悪くしてしまったんだ。
次に会う時も、私はきっとこのルージュを塗るだろう。塗った瞬間、ちょっと勇気が湧くけれど、もうしばらくは、目の前の彼の一言一言が、行動一つ一つが私を試す一手に思えてしまうだろう。勝ち負けなんてないのに。これがダメでもきっと次に行く時間はある。まだ23だ。このルージュがしっくり来るようになる時がきっと来る。分かってる。いつまでこれが続けば、見込みがないと判断していいんだろう。きっとこのままズルズルとこの関係は続くだろう。好きと言うだけ。簡単なことだ。でも、いざ目の前にすると言えない。そんな私だから、選ばれない。好きってこんなに難しかったっけ。

 

晴れ男と傘

彼と会う日の前日は、いつも天気が悪い。この悪天候は次の日まで続くだろうと、テレビから声がする。私は昔から、雨が嫌いだ。小さい頃、水が嫌いだった。その名残で、今も手が濡れたり服に水が跳ねたりするのが苦手で、雨だと憂鬱になる。それに、これも小さい頃からのことで、雨になると必ず頭が痛くなったり、雨天になったときの遠足コースのショボさがなんとも言えなかったり、気持ちもどんよりしたりして、どう考えても苦手なのだ。かといって、カンカン照りが好きなわけでもないのだが、いつだって雨が降るより晴れてくれたほうがいいに決まっている。そう思う。
前日までの天気予報に反して、彼と会う日は決まって快晴だ。一度、前日まで、いつ暴風警報になってもおかしくない強風警報と大雨洪水警報が出ていたにも関わらず、当日見事に晴れたことがあった。その日は、仲間内でBBQをする予定で、私はそれをすごく楽しみにしていた。すっきりと雲ひとつない空を見て、その時、ちょうど幹事だった彼を晴れ男だと思った。
そんな彼と、その後何度も何度も出かけたり遊んだりする間柄になるとは思ってもいなかったのだが、彼と会う日は、前日の天気予報がどうだろうと決まって晴れるし、晴れて欲しいと思う日に彼から連絡があったりと、偶然に偶然が重なり、彼を晴れ男だと信じずにはいられなくなった。彼は不思議な力を持っている。私には、そう思えた。
彼のことは好きだ。話していて楽しいし落ち着く。しっかりしているし、気も利く。もちろん、なんだこいつと思うところやよく分かんないなと思うところもあるし、何度も遊びや食事に誘ってくれるのは何故?と理由をはっきり聞きたいと思ってしまったりもするのだけれど、彼が私のことをどう思っていようが、私は彼のことを良いと思っているから誘いに乗るし、心を許しているからいろいろと余計なことばかり話してしまうのだ。
これだけ何度も会って、告白のこの字もない、男女が二人きりで一晩過ごしてなにもない、その事実が、彼の私に対する気持ちの全てだとしても。
そんな彼から、クリスマスにもらったプレゼントが傘だった。なんという皮肉。晴れても雨が降っても考えてしまうじゃないか。そっちは考えんの。少しでも、私のこと。雨が降って「傘使ってるかな」とか「今何してるかな」とか。考えんの。どうなの。

 

モラトリアムの次はクオーターライフクライシスかよ

このブログを始めた時、「大人になりたくない」「私が大人になれるはずがない」とあんなに思っていたのに、意外に自分がちゃんとモラトリアムを脱してくれて安心していたのも束の間。次に私を襲ってきたのは、よく分からない焦りや不安、「まだ若い」と言われるたびに思う「いや、まだじゃなくてもうやで」「いろんなことを鑑みると全然時間ないんやで」という感覚だった。何かに追い込まれているような、何かを失っていく気がするような感覚。「女の子と言える年齢ではなくなってきたな」どころではない。女盛りの終焉すらチラつく。旬は長続きしない。
人生の1/4を過ぎた時に訪れる幸福の低迷期。それを「クオーターライフクライシス」というらしい。まさにそれだ。モラトリアムの次はクオーターライフクライシスかよ。面倒くせえな人生。
日本の平均寿命はどんどん伸びている。私は幼少期、50歳くらいで死ぬつもりでいたが、死ねなさそうだ。人が80年生きるとして、まさに今23歳の私は、人生の1/4を生きている。80年という長い目で見ればまだ若いし、時間はたっぷりあるのかもしれない。でも、私たちはもれなく老いてゆく。今は、電車がなくなるまで飲んだって、次の日なんとか会社に行けるし、次の日が休みだったらオールだってできる。その体力が80まで続くなんて有り得ない。年金はいつからもらえるのか分からないし、っていうかもらえるのかすら分からない。50にもなれば、小さい文字が見辛くなるし、40すぎれば脂っこいものや甘いものを体が受け付けなくなる。可愛い服も入らなくなるかもしれないし、鮮やかな色なんて纏えなくなる。35すぎれば高齢出産と言われ、30すぎれば晩婚だと言われ、25すぎればもう若いとは言われなくなる。
そりゃ焦るだろうよ。しかもその上、「女の幸せ=結婚とは限らない」なんて風潮。女は結婚するもんだ。家庭に入るもんだ。当たり前な方が楽だったかもしれないとすら思うほどだ。選択肢が多くなった分、マジョリティとマイノリティーの差は広がる。
今は全く結婚の予定も結婚する気もない就活生だって、一応結婚を考える。男の人は考えないで仕事を選ぶのに、女性は結婚しても、子供が生まれても働き続けられるかどうか、考えなくてはならない。生き方が多様化した分、幸せの形も多様化している。私のものさしと隣の人のものさしは全く違う。学校の授業や教科書で、幸せは教えてくれなかった。
っていうか、未来の自分が楽をしたり、悲しまないために今頑張るんだろうけど、未来はちゃんと幸せ用意して待っててくれるわけ?毎日楽しいことばかりではない日々を過ごして、なんのために生きているんだろうと思うこともある。週末の予定が楽しみだからがんばる。たしかに。お金がもらえるからがんばる。それもたしかに。結局、未来の自分に笑っててほしくて、今日を生きてるのだけど、それっていつまで続くの?「きっと明日は」「きっといつかは」って思いながらずっと生きてたら、いつになったら笑えるの、解放されるの?どうせ、死ぬまでそうやって生きていくんだよ人は。そうして、死ぬとき、ようやく、あー幸せだって思うんだよ。死ぬとき、初めてそう思うんだよ。今、どんなに夢見て幸せを思い描いたって、今日のがんばりの先にある幸せを実感するのは今の私じゃなくて、その時の私なわけで。その時の私が今と同じ幸福観を持っているかなんてわからないし、どうも人生満たされる気がしない。やっぱり、「これが幸せ」「それで幸せ」ってある程度言い切って、そうして幸せになるんだろうなって思う。
「幸せになりたい」なんて言わない。「楽しく生きたい」それだけだ。でもそれって相当がんばらないとだめだなって23の私は思ってる。

 

広島・平和記念資料館

 広島駅から路面電車に揺られ、原爆ドーム前で降りた。広島一人旅最後に訪れた場所である。路面電車を降りてすぐ、あの屋根が見えた。すぐ横は川が流れ、雲の切れ間から太陽が射して、すごくキレイですごく穏やかな街並みなのに、およそ70年前のこの場所は、なにもなくなって、痛くて悲しくて、絶望しかなかったのかなと思うとつらかった。こんな素敵な街に、似つかわしくない過去があることが、信じられなかった。
原爆の子像、平和の灯、原爆死没者慰霊碑、そして平和記念資料館を見て回った。
原爆投下なんて非人道的なことを、当時のアメリカはよくもやってくれたなと思ったし、絶対に良いわけがない。戦争が起きずに済むなら起きない方が絶対に良い。もちろんだ。
と同時に、戦争、核がない世界=平和なのか?という思いもよぎった。
日本は、世界で唯一の被爆国だ。そういう国である以上、伝えていかなきゃいけないこと、譲ってはいけない、妥協してはいけないことはあると思う。でも、ここに来る前に思っていたのは、全てみた後、ずっしり重たい気持ちになって、「戦争はダメだよ!」って叫んでみるような、そんな気持ちになるんだろうってことだった。
実際、全くそんなことにはならなかった。平和とは、それぞれの中にあって、一人ひとりがきちんと追い求めて初めて生まれる、それが平和だと思った。与えられるものではない。追求、達成するもの。そう思った。
資料館は、事実を多面的に淡々と伝えているように感じた。それがすごく良かった。感情に訴えかけることも大事だ。でも、戦争があって、原爆が落ちたという事実を知った今を生きる人に、可哀想とか大変だったと思ってもらいたいわけではなく、「平和な世界」ってなによ、もう一度考えてみてよ、今生きるこの国は戦争がないから、原爆が落ちる予定がないからって、平和って言える?そう問いかけられているような気がした。
戦争を経験した人がどんどん少なくなっている。戦争は怖いから、悲しいから、絶対にしてはいけないんだ。その人たちからの話を聞いて強くそう思う。正しい。頭では分かる。
でも、私は戦争のことを人伝にしか知らないから、だからいけないと言われても分からない。分かっているけど分からない。だから、今を生きる人たちは、そういう過去をしっかり受け止めて、考えて、今に馴染ませていけばよいのではなかろうか。
平和とか隣人愛を語っている余裕は、残念ながら私にはない。今を生きることで精一杯すぎる。
LINEが返ってこない、会いたい人に会えない、行きたい場所ややりたいことはいっぱいあるのに時間が足りない。テレビや雑誌で話題のお洒落なお店でご飯を食べたい。明日、今日終わらなかった仕事やらなきゃ…
好きな人が、大切な人が、同じ空の下で生きていて、笑っているかな、泣いてるかな。私はなんとかやっているよ、と思うだけで1日が終わってしまうのに、その空の続きの先に、明日食べる食糧もなくてお腹を空かせてる人がいるとか、銃声に怯えながら生活してる人がいるとか考えている余裕はない。本当は考えなきゃいけないのかもしれないし、自分はその生活に比べたら遥かに贅沢な生活をしているのだから、譲ったり、我慢したりしないといけないのかもしれない。でも、この国にいたら、今の生活でさえ、まだまだと思ってしまうし、追い求める毎日がそういうもんだってなってしまってるから、非平和かもと思う。
みんな同じは無理だ。世界から戦争がなくなることもないだろう。でも、平和や幸せをそれぞれに追い求め、自ら手に入れる、掴む、叶えることはできるはずだ。他人のものを横取りするとか、制圧するとか、傷つけるとかなしに。それぞれの、それぞれに、はできると思う。そういうことだと思う。
日本が味わった悲しい過去。それを伝えることももちろん大事だ。でも、この国は今、世界を引っ張る経済大国に、平和で豊かと言われる国になった。確かに、経済的には豊かな国だ。でもそのおかげで人々の毎日や心は、より高水準な豊かさを求めるようになった。求めて求めて求めて求めて、結局足りていないのが現状だ。こんなふうに否定的な見方はいくらでもできるが、せっかくこの平和で豊かな国に生きているのだから、夢や希望を語りたいし、語ってほしい。この豊かさのおかげで、明日なにしよう、あれがしたい、これがしたいと考えることができる。もっと先の話をすることができる。その素晴らしさを私たちが身をもって感じて伝えていけるような今にすることがなにより大切なのではないかと思う。だから、私は世界平和など願わない。私の心の中に散らばるちっちゃな野望や欲望をちょっとずつ叶えていく、そんなことに一喜一憂し続ける、そんな人生を全力で求める毎日にしたい。

 

君の名は。

昨日まで、心の大部分を占めていた気持ちがここまで跡形もなく綺麗になくなってしまうなんて不思議だ。
広島一人旅の途中、手持ち無沙汰な時間ができて、どうしようもなく行くあてもすることもなかったので、2回目の「君の名は。」を観た。1回目はストーリーに対して悲しかったり感動したりして泣けたけど、2回目は違った。忘れたくないことって毎日の生活の中に溢れてるなというのが一番の感想だった。
"時が経っても決して忘れないように この瞳でスクリーンショットしたい"、"時が経っても決して忘れないように この涙を瞬間冷凍したい"と、とある曲の歌詞にあるけれど、本当それ。今の気持ちの消費期限はいつだって今。今しか有効じゃない。一瞬でも過ぎてしまったら、手から離れていく。今、この瞬間の好きって気持ちとか、熱とか、感覚とか動きとか、そのまま取っておきたいのに、そんな意思とは裏腹に変わってしまう。好きは好きだけど、全く同じ状態の好きは2度とない。そう思ったら、忘れたくないと思ったし、忘れてしまうことが日々の生活の中にありすぎてどうしたらいいのか分からなくなった。
誰と会った、何をした、どこに行った、何を食べた、笑った、泣いた…
その時々の気持ち、全部忘れたくないって思うのに、次の瞬間、自分の手から離れてしまう。またもう一度そんな気持ちになりたくて、求めて…を繰り返す。
好きになった人が過去になれば、気持ちも過去のものになって、せっかく好きになれたのに寂しいなって思う。でも、次また別の誰かがその人のことを好きって思って、離れて行って、思いが繋がっていく。「結ぶ」ってそういうことか。その好きが誰かに受け継がれて、心の中に誰かが入って、出て。
忘れて、思い出して…ずっと続く。
きっとまたいつか、あの時と同じ気持ちになるかもしれないし、ならないかもしれない。
そんな先の自分の感情より、今の、この瞬間の自分の気持ちとしっかり向き合いたい。
好きと思うのも、今はそんなに好きじゃないのも、あの夜感じた嫌いも、全部意味があるんだと思う。

 

 恋、捨てた。

なぜだろう。ほんの数時間前まで、会いたくて会いたくて堪らなかった人のことを、今、「もう二度と会いたくない」と思っている。
新宿駅の一番奥、小田急線と京王線が分かれる手前で、「今日はありがとう。楽しかった。」という言葉が、胃から気管を通って口から出た。素通りされた心はぽかんとしていたけれど、そんなことお構いなく、彼の「あ、うん」とかいう間の抜けた声に背を向けた。
もう二度と会うまい。もう二度と、私から会いたいなんて言うまい。そしてなにより、今日会わなきゃよかったと思ってしまった。誰かと一緒にいて、楽しくなかったなと思うことは稀にあっても、時間を無駄にしたなと思ったのは生まれて初めてだ。どうか彼も、今日私と会ったことを時間の無駄だったと思ってくれ。各駅停車の電車にただ揺られながら思った。

「彼女作るとお金がかかる」
君が正直な人だというのは、よくわかっている。でも、君の隣にいるヤツが、自分と2人で会うということは、自分に多少好意があるのかな、自分のことが好きだったら、という考えには至らなかったのだろうか。そういう考えに至るという配慮は、少なからず隣にいても感じられなかった。
なんども2人で飲みに行き、食事に行き、映画や博物館にも行き、家にも行き、クリスマスにも会い、クリスマスプレゼントもくれた人に、まさかこんなことを言われるなんて思わなかった。
仮にその事実を抜きにしても、私が彼のことをどう思っているかというのを考慮しないとしても、突然の彼女いらない宣言がそもそも必要ないし、彼女がいらない理由そのものがすごく格好悪いし、格好悪すぎる。そして、それを男同士の飲みの場で言うならまだしも、女子の前で、女子と2人で休みの日に遊んでおきながらわざわざ発するというのが、3段重ねでガッカリだった。それに、なにより「彼女作るとお金がかかる」という思考回路が信じられなかった。たしかに、彼女がいれば、週末デートしたり、そこでご飯でも食べれば奢ったり、誕生日や記念日など特別な日のプレゼントを用意したりと、単純に出費は増える。でも、大概の女子は、好きな男性に、物を頂いたりお金を払ってもらったりという行為に喜ぶわけではなく、真心に気持ちに喜んでいるということを、こいつは全く分かってない。気持ちのこもってないブランド物のプレゼントなんていらないし、奢らなきゃと嫌々奢られるご飯は美味しくない。というか、そんな人と過ごす時間ほど無駄なものはない。それに、その程度にしか思えない恋人に費やすお金と時間が無駄だ。それ、好きって言わないし、付き合ってるって言わないよ。そんなことにも気づかず、彼女を作るたびに、「高いプレゼント用意しなきゃ」「奢らなきゃ」と思いながら表面的に尽くしてきたんだと思うと、大切にしていた気になっていたんだと思うと、可哀想に思えた。
じゃあ、私にくれたブランド物の傘は?奢ってくれた食事は?付き合ってもないのに、お金を出したのはなんなんだ?という疑問は残るが、それを敢えて私に向かって言ってきたというのが彼の意思表示なんだろう。どう考えてもそう思うことしかできない。私だって形だけの関係ならいらない、綺麗なだけの波風立たない一見平穏に見える不穏はいらない。そんなことを思っている彼に、一瞬好意を持ったことすら後悔した。
いつか、現れるといいね。そんなあなたでも好きって言ってくれる人が。なんにも気づかず、あなたのプレゼントや行為に喜んでくれる人が。一時期の私みたいな見る目のない女子が。

 

暗礁に乗り上げた

「絶対幸せにしてやるのに、なんで俺じゃダメなのかな」
深夜2時。隣で鼻をすする音がした。仰向けに布団に寝転んでいる私は、暗闇の中で目を見開き、返す言葉を探した。
「私にはもったいないって思うんだよ、女子は。きっと。
なんとか絞り出したのは、この一言だった。嘘じゃない。どちらかといえば本心だ。
「なんだよそれ」
彼は鼻をすすりながら笑った。
どんなに頑張ったって、どんなに願ったって、叶わないことや手に入らないものがあるというのは分かっている。
しかもそれは、皮肉にも、頑張っていたり強く願っていたりする人ほど、遠かったりする。

「しっくりきてると思うんだけどな」
彼はあの子のことをしっくりくると思っているけど、彼女はそうは思っていない。
3連休の旅行も、同期の男女6人でわいわい1日目を終えたけれど、本当は、この彼が彼女と2人で行きたくて誘ったことが発端だったようだ。
しかし、私はその彼女から、「みんなで旅行に行こうとその彼と話していたんだけど予定どう?」という意味合いの誘いを受けた。そして、私はその誘いの背景をなにも疑わずにホイホイその旅行に参加した。
彼の彼女に対する気持ちを知っていたら、私は旅行を断っていただろうか。他の参加者も断っていただろうか。どうだろうか。
でも、私が察するに、彼のその本当の気持ちを知っていたのはきっと彼女だけだ。もちろん、「こいつは同期の女子の中なら、この子のことが良いと思ってるんだろうな」くらいのことは私も分かっていたけれど、こんなに本気で強い思いを持って彼女のことを思っているなんて、私は知らなかった。


純粋な男女の友情など成り立つわけがない。ましてや、付き合ってもない男女6人が旅行に行くとか。
この関係は、この中の誰かが誰かのことが好きだから、そして、その気持ちに応えられなかったり、気づかなかったりする人がいて成り立っている。そんな基本的なことを私はどうしてか忘れていた。
この奇妙な関係はいつまで続くだろうか。
この輪の中の、誰かが誰かに抱く好意を伝えてしまった瞬間、この関係は壊れるだろう。
「きっと、男子はみんなあいつのことが好きだ。でも、それを言ってしまったら、この関係が崩れる。だから、みんな言わない。」

みんな、大人だ。学生じゃない。社会人だ。
少し考えれば、この関係を崩さないことが正解だと気づく。この関係が成り立っていることがそもそもおかしなことだということも忘れて。
おそらく、ここまで「友情」として関係が続いてきてしまったら、最初の彼がその彼女と付き合うことはないだろうし、他にも好意のベクトルがあったとしても一方通行なままだろう。
だとしても、私たちは続けることを選び続けて、その意思が途切れた途端、仲の良い同期なんかではなくなり、ただの知り合いになるだろう。

優しさを履き違えた私たちが幸せになる道は残っているだろうか。

どんな奇妙な関係でも、意思があれば続いていく。

どちらかが変えたいと願わない限り。バランスを壊さない限り。いつまでもこのまま続けていける。
逃げるは恥だが役に立つ」より


私たちの、私の、結末はどんなだろう。期待はしてない。きっと虚しく、あっけなく、でも意外と簡単にどうかなるだろう。
でも、私はそのきっかけになるつもりはない。でも、もう簡単に抜け出すこともできない。

 

映画観賞な休日

「セトウツミ」
岡本天音くんて、すげー味があるよな。主人公の友達役やらせたら日本一。いるいる、こういうヤツ。でも、味っていうか色気っていうか、するめ感?なんか好きだわ。
菅田将暉池松壮亮の絡みも最高。おもしろい。1時間くらいで観れるし、なにも考えずに観れるし、なにも生み出さないけど、よい。

オペラ座の怪人
高校時代、所属していた吹奏楽部の演奏会で演奏することになって、そのとき1度映画を観たことがあった。それぶりに観た。問答無用で曲が素晴らしい。自分が演奏会したからっていうのもあるけど、観終わった後、つい口ずさんでしまう。歌詞は、全く歌えないけどロマンティックだなって思う。
高校生の時は、ファントム、仮面とったらイケメンじゃん!って友達と騒いだ記憶もあるけど、それ以上に世界観がなんとなく怖かったような気がする。改めて観て、解像度は低いけど、映像美というか画の美しさがすごかった。美しいからこそ、オペラ座に棲みつく怪人が起こした悲劇が際立つんだなと。
ファントムは、とにかく孤独で、自分の孤独さを紛らわすというか、寂しさを知ってほしくて、分かってほしくて、暴れてしまうのだけど、私も大人になったということなのか、そんなファントムを恐怖の存在ではなく、不器用な存在として、受け取ることができた。ファントムほど豪快なことはしないけれど、私にだって誰にだって、分かってもらえないことを分かってほしくてもがくことがあるから。やり方はよくないかもしれないけど、ファントムの寂しさも理解できて、余計に華やかなオペラ座の舞台がグサグサ刺さった。

ラブ・アゲイン
「LA LA LAND」を観て、「ミュージカル映画やっぱいいな!」という気持ちと「ライアン・ゴズリングかっこよすぎるな!」という気持ちから、「オペラ座の怪人」と「レ・ミゼラブル」は前者のルートで、「ラブ・アゲイン」は、後者の方で観ようと思った。
これまで、人並み程度に映画を観てきて、すぐに頭に思い浮かべることができるくらい何度も観て、好きだと思う作品もいくつかある。その中で「LA LA LA LAND」もまさにそんな映画のひとつなのだけど、「ラブ・アゲイン」、歴代1位。今まで観た映画の中で一番好きかもしれない。
ホームドラマであり、ラブストーリーでもあるのだけど、オチが最高にコメディ。キュンキュンしながら観ていたところに大爆笑。そんなことあるかよ!まじかよ!と一人で叫んでいた。楽しかった。
ある夫婦が突如熟年離婚するところから始まる物語。「愛」は今の2人の間から消えてしまったのか、夫婦愛、家族愛、親子愛、恋愛…いろんな愛で繋がってる人たちから「愛」とは?ってなんだか深いことを考えさせられた。答えはでなかったが。
邦題は「ラブ・アゲイン」だけれど、原題は「Crazy,Stupid,Love」。くれぐれもアゲインと思って観てほしくない。そもそもなにも終わってない。海外映画の邦題センスなさすぎ問題。

レ・ミゼラブル
今まで累計10回は観てる。観過ぎ。気軽に観れる作品では決してないけど、何度も観て気持ち良い作品ではないけど、ミュージカル映画だからかな、何度も何度も観てしまう。これも、大学時代に所属していた吹奏楽団の演奏会で演奏したことがあるので、楽曲は耳にこびりついている。
エディ・レッドメインが好きなので、マリウスとコゼットのシーンが好き。ジャベール警部も堅物だけどかっこよくて大好き。アン・ハサウェイも好き。
重いけど、ずっしりくるけど、問題提起をしている作品ではないと思うので、音楽や映像の迫力を心から楽しんでいる。あと、アン・ハサウェイの「I Dreamed A Dream」に始まり、キャストが吹き替えなしで歌に挑戦していて、さらにみんなめちゃくちゃ歌が上手いってところも好きなポイント。

きみに読む物語
ライアン作品。最高。感動する系の映画で号泣したことはもちろん何度もあるけど、この話は、開始早々から泣いてしまって、なぜか。そこからずっと泣いてた。涙が止まらなかった。多分、こんな素敵なラブストーリー、他にないよって思うのと同時に、いやでも、こういう選択って誰もがし得るよなっていう身近さも感じたのが号泣した理由だと思う。
「LA LA LAND」「ラブ・アゲイン」観て、植え付けられたライアンのイメージとは全然違うキャラクターで、でもすごく魅力的な役で、他の作品もいろいろ観たい。

 

綺麗事を言いたい

 最近、酒が美味しいと思うのが最初の一口だけになってきた。飲みたいという欲望に任せて飲むと飲んだあとがつらい。なんなら、飲んでる最中からつらい。お酒は外で飲むだけで、家で全く飲まないから、単純に弱くなったということなのか。一応、酒が強いで通ってるんだけどな私。飲みの席での私から「酒が強い」を取ったら何が残るんだろう。盛り上げ上手でも、話し上手でも、気遣い上手でもない。こういうとき、誰もが素で無防備になるとき、自分の能力の低さというかダメさというか何もなさが目につく。楽しいはずの時間が、悶々と考え込む時間になってしまう。「酒が強い」自分を保たなきゃと躍起になる。
「飲んでる?今日ペース遅くない?」
分かってる分かってる。でも、「飲んでますよー!次、ハイボールで!」と言ってしまう。来たら飲む。あんま美味しくないけど。
それでも、飲みに行こうと誘ってくれる人はいる。盛り上げるのも面白い話も気配りもできないのに、なんで誘ってくれるんだろう。飲みに行こうと言ってくれる人はたくさんいる。そんな中で実際に具体的な誘いをしてくれる人の数はぐんと減る。実現させる気がないなら、飲みに行こうなんて言わなきゃいいのにとずっと思っていたけど、社会に染まった私もとうとう、微塵も思ってもない人に「また飲みに行こうね」なんて、目もちゃんと笑って言うことができるようになった。仕事がそういう仕事だからかもしれないが。
皆が皆、思ってもないことを口に出して、それを仕方なく実現しているとは思っていない。そんな時間の使い方は、はっきり言って浪費だ。でも、自分が遂に思ってもないことを言える大人になってしまい、「あーあれ、軽く言っただけなのにな」という気持ちになってしまって、でもそう言ってしまった手前、断るに断れないなと思う経験をして、他人にもそう思われてるのではないかと思うことが増えた。
大学時代、どっかの学部の教授が「大学は嫌いな人とは無理して付き合わなくていい。1人が良いと思ったら1人でいたっていい。時に、大人数で過ごすことも大事だが、1人で自分のために時間を有意義に使うことも大事だ。この時間をどのように使うかは自由だ」と学生の前で語っていたのを覚えている。
確かに、無理して手に入れた居心地の良さなど心から落ち着けるわけがない。でも、無理をするということを努力することだと考えると話は変わってくる。努力して、がんばって手に入れた居心地の良さは本当に居心地がいいものだ。自己満足だけじゃなく、周りも認めてくれる。それが心地良いものだ。
無理する必要はない。飲み会が、リップサービスが苦手なら、そんなものに一生懸命になる必要はない。でも、がんばりたいって少しでも思うんだったら、がんばるべきなんじゃないかと思う。居心地の良さは、逃げたり、排斥したりして手に入れるのではなく、努力したり、がんばったりして手に入れたい。たとえ、努力したりがんばったりして手に入れた居心地の良さが、高級ソファみたいに最初は落ち着かなかったり、合わない感じがしたりしても、だんだん慣れて肌に馴染んで、使いやすくなっていくみたいに、手が届かないと思うものに手を伸ばしてみたい。その手を簡単に下げずにいたい。
好きじゃなくても、自分には合わなそうでも、がんばりたいって思うってことは、前向きな思いがあるってことだから。割合が少なくたって、その気持ちが少しでもあるなら、がんばりたい。
好きなお酒を飲んでいれば、好きなペースで飲んでいれば、美味しいに決まっている。でも、それ以上に相手が美味しいと思ってお酒を飲めているかを大事にしたい。
っていう綺麗事。

 

この世で一番の好き嫌い

仕事着はスーツ。入社したての頃は、毎日スーツなんて飽きるなと思っていたが、最近では色や形など、ひとえにスーツと言っても、おしゃれなものもたくさんあるし、インナーに何を着るかでガラッと印象が変わったりするので、それはそれで楽しいなと思うようになった。逆に自由な服装で出勤できる会社だったら面倒だっただろうなとすら思う。
高校時代、クラスに同じ制服を着ているとは思えないほどおしゃれに着こなす子がいたり、そんなのには興味なく、ただ校則通りの着方をしている子もいて、面白いと思っていた。今も「スーツ」というある程度限定されたものをおしゃれに着こなすというのは、私服を自由に着るよりセンスが問われる気がしている。無頓着な人だということも特に気にならないけれど、おしゃれな人はそこにこだわるか!そう着るか!というところまで抜かりなかったりする。
とはいえど、実際の私は、毎日3着のスーツと5~6着程度のインナーをコロコロ着回しているだけで、結局定型化している。今でこそ、平日のスーツ、休日の私服、どんなものを着ようか興味を持って考えるようになったが、正直、社会に出るまで、引くほどファッションに興味がなかった。自分に何が似合うだろうとか、どんな服が着たいんだろうとか、ほとんど考えたことがなかった。私のファッションへの無頓着さは、親や親戚も心配するほどで、大学時代、「あの子は放っておくと服なんて買わないんじゃないか」「普通の女子大生が洋服に使うお金をジャニーズに費やしているのでは」と末恐ろしく思った母親が、よく仕送りの荷物と一緒に私服を買って送ってくれたものだった。
私が社会人になってファッションに興味を持つようになったのは、職業柄、「第一印象は良いに越したことがない」ということに尽きる。それは顔が綺麗とか、見た目の良し悪しではなく、服やメイクひとつで「この人は信頼できそうだな」とか「仕事できそうだな」とか「自信に満ち溢れているな」とか「親しみやすそうだな」なんて、人に与える印象を変えられるからだ。故に、どんな自分を表現したいかによって、手に取るアイテムが変わってくるのだ。それは、どんな自分になりたいかでもいい。それによって、身につける知識や教養、喋り方や言葉遣い、表情だって変わってくる。最初の頃は、「アイデンティティが崩壊する!!!」なんて思っていたけれど、表現すらまともにしていない人間のアイデンティティなど、他人から見たら、ないと同等である。
まずは、人からどう見られたいか、どう思われたいか戦略を立て、表現していくことが大事なんだ。そこから、「最初の印象と違って意外と○○なんだね」なんて中身に興味を持ってもらえるようになる。捉え方によってはそのギャップが人間の幅になることもあり得る。美人なことやかわいいことも武器だ。でもそれだけじゃ戦えない。綺麗にするためのメイクじゃない。ファッションじゃない。最初はハリボテでもなんでもいい。似合わなくてもいいから着てみる。試してみる。簡単なことだ。
それは、私服にも及ぶ。普段スーツを着ている反動か、ファッション誌を読めば、「次の休み買い物行くとき、こんな感じの服着たい」「普段スーツ地味色だからハッキリした色が着たい」「ヘアアレンジもしたい」と欲が出てくる。
今まさに、興味と冒険心を持って試着室に入っている。学生時代、ファッションに興味がなかったのは、どうせきれいになれない、おしゃれになれないとどこかで決めつけていたから。自信がなかったから。それに、自分はおろか他人にも興味がなかったから。今も自信はない。相変わらず、きれいでもなければおしゃれでもない。でも、今、なりたい自分、表現したい自分がいるから、それを見せたい、伝えたいと思う相手がいるから、あれこれ考えて悩んで鏡に映る自分と対峙するんだと思う。

可愛くなりたいって思うのは、ひとりぼっちじゃないってこと。
「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う」著尾形真理子 より

 

10年

10曲選んだ。
難しすぎた。1曲1曲聴いてるだけで涙でた。
10年ってなんだよ、、、、私10年もファンやってたのかよ、、、、なんでだよ
っていう涙ですよ、もちろん(笑)コンサート言って彼らの姿見るまではとことんふざけますよ。
10年か。私中学生でした。どんな大人になるんだろうって想像すら出来なかった10年後。あ、Hey!Say!JUMP応援してます。相変わらずです。あ、担当は変わってます。安心して。
思い出、ありすぎてありすぎて。
社会人になって「え、ジャニーズ好きなの?」って、「なにその"え、"って」っていう反応されることも相変わらずだけど、でもHey!Say!JUMPが好きだと言って、ジャニーズ好きなんだって言ってくれたり、山田くん?とかって名前出してくれたり、詳しくない人でも反応ができるグループになってくれたからこっちも普通に公言できるようになった気がする。
厳密に言うと好きとか嫌いとか、応援するとかしないとかそんなんじゃないけどね、もはや。
自分の一部っていうか、生活の一部っていうか。もう欠くことができない。なくせない。ないのが想像できない。想像することすらない。
昔はあれこれ、夢や理想を彼らに抱いていたけれど、もうそれもない。そんなことしなくても彼らはちゃんと歩いてくれてるし、その姿を見て私もちゃんと歩かなきゃと思って歩いてるところであって。
10年前、出会ったのがたまたまHey!Say!JUMPだったってだけで、それが他のグループだったりクラスの男子だったりしたらそれはそれで別の毎日があったというだけの話。もちろん想像もできない話だけど。
よく思う。「なんで私Hey!Say!JUMPこんなに好きなんだろうな」って。もう、10年経つと愛着っていうか、別に好きではないけど好きなんだよねって感覚。Hey!Say!JUMPだから、Hey!Say!JUMPだったから、私だから、私だったから、としか言えない。
10年あっという間であり長かったけど、これがゴールじゃないからね。きっと一生でしょ。だから私も一生。それだけ。

 

中締め

中締めしたら帰るよね。中締めって言わないよね。でも続くかもしれないよね。
中締めと言う名の編集後記。というかあとがき?
気持ちの吐き出し場所によくメールの下書き箱を使います。宛先も件名もなく、ただ勢いで書き連ねて保存して。ブログに出来そうなものかあればと思って溜めてはいたものの、結局個人的すぎる気がして溜め続けてしまい…気づけばすごい量になっていたので。エッセイ的な?笑 去年の秋ぐらいからのものなので冒頭の季節感のなさは御免。
でも誰かに見せる予定なく書いたものたちだったので熱量すごくて。ほぼ下書き保存のまま、コピペでまとめてみた感じです。字数がすごい。それに話題の脈略がないし、なにより暗い!!笑
最後まで読んでくださった強者、ありがとう!それだけでなんか自分の気持ちが報われたような葬れたような気がします!