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門限の9時

だんだん未来広がってく

映画「ピンクとグレー」 感想 というか気持ちの殴り書き

年が明けたのなんて昨日のことのように思っていたのに、もう2月である。
去年の今頃といえば、私は3月から本格的に始まる就職活動に向けて、学内主催の業界研究セミナーというものに片っ端から参加していた。
将来の進路を考える時期だというのに、1年先の自分が何をしているかすら想像できやしなかった。
何が必要、何が足りない・・・そもそも何から始めればいいのか、何を考えたらいいのか、何がわからないのかわからない状態。
業界研究、インターン、合同説明会、面接対策・・・・まさに、「やるしかないから、やるしかない。」*1。そんな感じで、目の前のことが未来につながる"かも"なんて思いながら生活していた。
そんなふうに自分の手や足を動かしていたら、「やるしかないから、やるしかない。」ものたちがどんなものなのか、なぜ先輩や就職本が「必要」と口を酸っぱくして言うのか、なんとなくだがわかった気がした。

でも、何十社とESを書いて面接をしても、「自己分析」だけは、結局なんだったのかわからなかった。うーん、これだと言い方が悪い。結局のところ、自分の強みをいくら語ったって、自分が出来ることを主張したって、「自分」のことなんて少しもわからなかった。
結局、就職活動の中でわかったことは、「いくら大真面目に自分と向き合ったって、自分のことなんてわかりゃしない」ということだった。
ゼミ、サークル、アルバイトなど集団の中での振る舞い方や役割、気心の知れた仲間の中でのキャラクター、面接官との会話、その日偶然隣に座った就活生との関り方・・・全部が全部自分の意思だったわけじゃない。その方が良いと判断しての役割かもしれないし、自然な流れで浸透したキャラかもしれない。自分以外の人と関わって初めて自分という存在を認識して、自分が見えるのだと心から思ったのだ。


"やるしかない。やらないなんてないから。"
ごっちの信念だった。
1年前、就職活動を始める自分に突き付けられた「やるしかないから、やるしかない。」という言葉を重なった。
言葉はいつだって、言葉そのものの意味以外に、その言葉を発した人間の人柄だとか、その言葉を受け取る自分自身の心情だとかで、意味が膨らんだり、そぎ落とされたりする。
ごっちが言えば、なんだかカッコよく、すごい言葉な気がするが、私だって、やらないという選択肢のないことをやってきた。特別なことなんかじゃない。誰だってきっとそうだと思ったのだ。

この言葉は、ごっちのお姉さんがごっちに言った言葉だった。

「やりたい、やりたくないじゃない、やれることをやるの」
お姉さんは、ごっちにそう教えた。


キャンパスが違うために、サークルの話し合いに毎回参加できない同級生がいた。
その1人のために、他の十何人が時間や場所を合わせるのは、余計に話し合いが進まないので、仕方がない。
その同級生にもきちんと共有したいと思い、私は議事録的なものを作って共有クラウドのアカウントも作ってアップした。
結局、1ヶ月に20日議事録を作っていた。単に話し合いのメモを簡単に文字起こしして、ドラッグしてアップするだけの、誰でもできる簡単なお仕事。私だって、レポートや課題もやらなければならない。誰か代わりにやるよと言ってくれる子はいないかと期待するほど、やりたくない時もあった。でも、ダラダラする時間を割けば、睡眠時間を割けば、出来ないことはない。どれだけの人が見ていたかのかわからない。でも話し合いに出れない子がどんどん置いてけぼりになってしまう。マイノリティーを守りたくて、マイノリティーを自分の好きな集団の中に作りたくなくて、やるしかなかった。
そうしたらどうだ。私はすっかり、サークルの中で「事務作業のエキスパート」になった。「事務作業なんて誰でもできる、でもななんは、半分の時間で終わらせてくれる。」
まさに、「やりたい、やりたくないじゃない。やれることをやる」だった。


世界は、上手く出来ていて、やりたいことと適性が合致している人と、適性以外にやりたいことがある人がいたりするようだ。
得意と好きは違う。

好きだから得意だなんて、得意だから好きだなんて、そんなの決めつけだろ。
向いてるとか向いてないとか、才能があるとかないとか、人が決めるもんじゃない。
私はそう思う。



私は、人間の目的とは結局「自分の居心地の良い世界を、1センチでもいいから広げる」ことだろうと思っている節がある。
「居心地の良い世界」で生きている人は、才能があるように見えるし、向いてる生き方を見つけられた人のように思える。
でも、「自分」を見ているのは、他人だし、評価や称賛するのも全部他人だ。
ごっちが「白木蓮吾」になっていくように、本当の自分とか、偽りの自分とか、自分でもなにがなんだかわからないのだ。


自分のことを理解できないのは、周りと比べて劣っているのかもしれないと思ったりもした。
でも、「ピンクとグレー」の原作を読んでも、映画を観ても、「自分」を「自分」たらしめるものってなんなのか、「自分」と「自分以外の人」の間にあるものがなんなのか、よくわからなかった。



私は、アイドルが好きで、好きなアイドルの発言とか好みとか、考えとか、知りたいなと思っているし、知っていることだってある。
アイドルの中身を見て好きになっているのかもしれない。
でも、私が知っているアイドルについてのあれこれを知り、理解することが、そのまま好きなアイドルの中の人を理解することに繋がるのかと言ったら、アイドルの全てを理解しているのかと言ったら、言い淀んでしまう。

原作を読んだときは、そこまで考えなかった。オニアンコウとかメダカのくだりで、「自分ってなんだろうな」とぐるぐる思っただけだった。
でも、映画では、62分後の衝撃と言われる仕掛けのおかげで、私の中に想像としてあったごっちのアイデンティティが、りばちゃんのアイデンティティが、見事に崩壊した。
りばちゃんは結局、ごっちになれなかったし、ごっちの一番近くにいたはずなのに、本当のごっちを理解できていたわけじゃなかった。


アイドルとファンみたいだよなー。って思った。
アイドルとしての自分、一人の人間としての自分。
ファンに見せてる自分、ファンに見せていない自分。

アイドルとして好きになることはできても、きっと一人の人間として好きになることはできない。

アイドルでありながら、この作品を書き上げたシゲにそんなことを突き付けられたような気持ちになった。

知らないことなんて、世の中にたくさんあって、知らない方が良いこともたくさんあって。知っておいた方が良いこともたくさんあって。


「SUPER DELICATE」聴きたくなった。←



行定監督が「原作を読んで全く感傷的にならなかった」と仰っていたように、原作の感傷的は部分を全部そぎ落としていた印象だった。
だからこそ、良い意味で突き刺さるものがあったように思う。原作はもっとロマンティックな感じがあった。
それこそ、「恋とか愛とかの類ではない」人間同士のぶつかり合いみたいなものが、時に華やかに、時に残酷に描かれていたかなと思う。

宣伝文句の「62分後の衝撃」には、本当にやられた。
最初に公表された配役から一転したのも、意味あるのかな?とかそこから騙されてたのかな?とか考えて、しばらく放心状態だった。

そして、裕翔くんかっこよすぎな。
全然ジャニーズ映画じゃなかったけど、アイドルの裕翔くんが演じることで、アイドルのシゲの思いとか理解できたお話なんじゃないかなと思ったし、裕翔くんにしかできない映画だったと心から思った。
キャストのみなさん全員が、水を得た魚のように、息するみたいな感覚で役を演じていて、すっごくリアリティがあった。
途中、監督とかシゲが出ているのは知っていたけど、結構ガッツリ出てて笑った。
ひとつ、りばちゃんが本当にどうしようもないやつになっていたのが解せなかった。確かに、原作読んでてもどうしようもないなって思ったりしたけど、原作を読んだ時と同じか、それ以上に見事に映像化されてて、演技力なのかそういう演出なのかわからないけど、原作以上にりばちゃんが一方的にごっちに依存している感じになっていたのはなー、と思ったり。


何を書いているのかわからないので最後にします。
原作とは違った良さや見ごたえがあるんだけど、全く別物ってわけじゃなくて、ちゃんと延長線上にあって。何よりリアリティがものすごくあって、そのハラハラドキドキする感じとか、現実にこんなことが起こったらとか考えてたら、すごく楽しかったです。

裕翔くんは、この世界でもっと活躍していく人になって、同世代を代表する役者になって、この国の映画界になくてはならない人になっていくんだろうなと思いました。それに相応しい素晴らしいスタートを切れたのではないでしょうか。
裕翔くんも日本アカデミー賞新人俳優賞、あるよ。絶対。裕翔くんが受賞しなきゃ誰が受賞するんだ。ってくらい、年始公開の映画ですけど、インパクト残してくれたと思います。

*1:マイナビ2016のキャッチコピー。ちなみにマイナビ2017は、「やれるもんなら、やってみよう。」・・・なんと前向きな。