君のその一言が
伊野尾くん、いくらなんでも遅くなりすぎですが、6/22、26歳のお誕生日おめでとうございました。
そして最近の活躍おめでとうございます。
遅くなって本当にごめんなさいね!!忙しかった!!社会人って大変ですね!!裕翔くんにも書きたいことがあるので、そちらもなる早で書きたい!まずは伊野尾さんから。
最近の伊野尾さんは働きまくってて、正直、体調崩さないかだけが心配と思いながら見ています。寝てる時間あるのかな。疲れてないかな。ジャニワやりながら研究室通って卒論書き切ったあなただから大丈夫だろうとは思うけど、その経験がなかったらすごく気が気でなかったと思う。
とは言っても、私は、木曜朝だろうと、テレビから聞こえる高い声にボソッと「伊野尾さんおはよう」って言って、その声に背中を向けて朝ごはん食べて、5分もせずにテレビの前から去るような慌ただしい朝を過ごしている。
母親は昔から伊野尾くんかわいいと言っていたけど、最近は祖母までこのマッシュの子かわいいと言い始めたから怖い。
会社の食堂のテレビでヒルナンデスを見ていたパートのおばさんたちが、ありとめ見ながら、めざましに出てる伊野尾ちゃんもHey!Say!JUMPよね!あの子かわいい!なんて言ってる。
率直に怖い。
世間が適応出来てるのに、JUMP担の私が適応出来てない。ついこないだまでは、JUMP担がこの世間の誰よりも伊野尾くんの良さを知っていたのに、今じゃ、世間が伊野尾くんのこと何でも知ってるみたいな顔して伊野尾くんのこと見てる。怖い。
ちらっとテレビ画面を見て、彼が目を細め笑っていれば、お前そんなんじゃないじゃん!なんて、伊野尾くんのこと分かりきったようなことを思いついたままに言ってる。
は、その顔知らない!!聞いてない!!そんなの私の知ってる伊野尾くんじゃない!!ってジタバタする。
伊野尾くんを見る人みんなして「かわいい」って言う。なにその形容。なんでみんなして伊野尾くんに対して「かわいい」としか言えないわけ。
そんなふうに思ったりしてて情けないなと思う。
これまでずっと、伊野尾担の数だけ伊野尾くんが存在していたイメージだったのに、今じゃみんなして、誰かに言えって言われてるみたいに「かわいい」って言ってて怖い。なんだか、伊野尾くんを語る権利がなくなった気がする。誰かが語れば語るだけ、その形容詞ひとつひとつが伊野尾くんそのものだったのに、今じゃ「かわいい」以外の伊野尾くんが削ぎ落とされてる気がする。「かわいい」の数が増えれば増えるほど、私の中の伊野尾くんが薄っぺらくなっていく。めざましのスタジオで、伊野尾くんの代わりに等身大パネルが立っててもみんな「かわいい」って言うんだろうな、いつもと変わらない朝を過ごすんだろうなって思ってしまう。
これまでの8年間は、まさか伊野尾くんがこんなコンテンツ化するなんて思わなかったから、人気が出て売れたのは嬉しくもあるけど、よく分からない戸惑いも続いてるのが本音かもしれない。
伊野尾くんの中身じゃなくて、存在が求められてる。倫理の教科書で「実存は本質に先立つ」って言葉を習ったのを思い出す。
伊野尾くんが何を考えているとか、どんなことを思っているのか、知る機会がどんどんなくなる。伊野尾くんも言わなくなる。もともと言う人じゃないし。そんなふうに考えて勝手に少し寂しくなっていた。
でも、撮り溜めたリトラを見てたら、そんな気持ち全部どこかに飛んで行った。
薮くんがタイル貼りに挑戦する回。タイルとタイルの間を埋める「目地埋め」という作業に薮くんが挑戦してる画で、ナレーションで「目地埋め」についての説明が話されていた。
普段そんな作業をしっかり見ることってないので、私も「へえー」なんて思っていたところに、スタジオのJUMPに画が切り替わった。
後列左端に伊野尾くんがいて、妙に安心感を覚えたのも束の間、「目地埋め」の話を真剣に聞いた伊野尾くんがボソッと、「おもしろいなあ」とこぼした。その瞬間、「私の知ってる伊野尾さんが2016年6月にもちゃんといる!!」ってグッときてしまった。本質より目に見える実存にとらわれてしまっていたのは私だったんだなメンバーと戯れる姿とか、JUMPへの思いとか気持ちとか感性とか、伊野尾くんを伊野尾くんたらしめるものはきっと少しも変わってないんだなって思った。
「おもしろいなあ」
たったそれだけ。たった一言。
でも、伊野尾くんが素直におもしろいと思ったり、良いと思ったりするっていう、理論じゃ語れない機微が私の元にもまだちゃんと届くんだなって嬉しかったし、伊野尾くんは元からちょっと遠いところにいただけで、遠くに行ってはないんだなって感じた。
めざましのいのおピクチャーで、JUMPのメンバーが写った写真を紹介してくれるのが本当に嬉しい。伊野尾くんが「Hey!Say!JUMP」ってワードを出してくれるたびにJUMPに興味を持ってくれる人が増えるような気がして嬉しい。
そしてなにより、伊野尾くんがHey!Say!JUMPの顔になり、きっかけになり、入り口になってくれているのが本当に嬉しい。
素直にありがとう!と思っています。
こちらが頑張らなくても、自然とHey!Say!JUMPが目に入る毎日をありがとう!
君のその一言が適当だなって思う人もいるかもしれないし、面白いと思う人がいるかもしれないけど、安心する人もいるから。
そうやって伊野尾くんの一言の力がどんどん大きくなっても、一言を出す抵抗はずっと変えないでほしい。その言葉選びや感覚はあなたの個性だから、あなたしか持ってないものだから、これからも変わらないでほしいと思っています。
26歳のお誕生日おめでとうございました。
「DEAR.」 の感想の前に
花火を見た。彩られた夜空を見上げながら、聴いたばかりの曲を思い出し、今の私の胸の真ん中って何なんだろうなんて考えた。
残念ながら、今、私の胸の真ん中にあるのはHey!Say!JUMPではない。もちろん、今までのように、変わらずHey!Say!JUMPが真ん中にいてほしいなって思っている。でも、社会に出たらそうはいかなくなった。当たり前だけど、仕事、プライベート、人付き合い、友達、同期、家族…胸の真ん中にいてほしいもの、真ん中に置くべきもの、つまり、頑張りたいことややりたいことが沢山ありすぎて、同じくらい全部が自分にとって大事で、優先順位をどう付けていったらいいのか、ふと我に返って悩んでしまう。
少なくとも分かっているのは、Hey!Say!JUMP中心の生活は出来ないということなんだけど、スパッと捨てられるくらい無関心にもなれない。
今の私には軸とか方位磁針みたいなものがなくてグラグラしている。
なにかを選べば、なにかを諦めることになる気がして、今の選択が5年後、10年後まで決めてしまうような気がして、結局なにも選べないし、決められない。
自分の選択に自分が責任を持てなくて、全部中途半端に並べるだけの作業になってしまってる。
そして、それはただの時間稼ぎでしかないというのも分かっているのに選べない。優先順位を決めるのすら怖い。
花火を見ながら、打ち上がる前には戻れないんだと悟った。打ち上がってしまったら、綺麗に咲いて散りゆくしかないんだなと思った。選択肢はないけど、その分見惚れるほどに美しい。
花火ほど美しくは咲けないけど、何かを選べたらきっとより良い1秒後が待ってるような、そんな気がした。
隣で見ていた友人の口から「きれい」という言葉が零れ落ちた。私の気持ちが間違って友達の口から零れてしまったかと思うほど、私の言葉は声にならなかった。
花火は、同じレジャーシートに座る仲間の見惚れ顔すら、明るく照らしていた。
私は、この人たちを選ばないと決めた。
直接的に選ぶのではなく、この人たちに誇れる選択をしたいと思った。
「君に見せたいと思える明日を選ぼう」
今の私の真ん中って多分こんな感じだ。
頑張り方を間違えそうになっていた。
Hey!Say!JUMPだって、私にとって君だ。
大好きな人たちに愛されるような選択をすることも時に大事かもしれないけれど、愛されるより信じてほしい気持ちのほうが俄然強い。
最近のHey!Say!JUMPは、自分たちの足で立って歩いて行けそうな頼もしさがある。私も周りの人から、大好きな人たちからそう思ってもらえる人になりたい。そのために、自分を良い方向に変えられる選択をしたい。
花火の帰り道、みんなで並んで駅まで向かった。何年経ってもこうして並んで他愛もない話をして笑っていられたら最高だと思った。私もHey!Say!JUMPも。
恋と言うな、愛と言え
久しぶりに人を愛しいと思った
ちょっとぶっきらぼうなとことか
私服が良い感じの日とダサい日の差が激しいとことか
調子乗りで単純なとことか
そのくせ根は引くほど真面目なとことか
味覚が子どもっぽいとことか
レモンサワーが好きなとことか
写真撮ると必ず変顔するとことか
妙に気が利くとことか
周りから「実はすっごい優しいよね」とか言われるとことか
なのに肝心な時に優しくないとことか
私なんかを食事に誘ったり映画に誘ったりするとことか
なに考えてんのかよく分かんないとことか
なんか、迂闊にも愛しいとか思ってる気がする私
まだ22だと思ってたら、いつの間にかもう22になってた。「恋」なんて単語を出したら、すれ違うだけの道行く人にさえ笑われてしまいそうだから、そんなこと思わないし言わない。でも、久しぶりに生身の人間を愛しいと思ってるんだ。
付き合いたいとかそんなことこれっぽっちも思っちゃない。恋がしたいわけじゃない。強がりでもなんでもない。
だって、これからの人生でするのはきっと、男とか女とか、好きとか嫌いとか、かわいいとかカッコいいとかじゃなくて、人間同士の付き合いっていうかもっと内面的で深い人との付き合いなんだろうなって思うから。
有村架純ちゃんと高良健吾くんが出てた月9の中で「恋愛は衣食住の順番でくる」ってセリフがあった。私も、これからは、見てくれじゃなくて、雨風凌げる関係を築ける人と出会って関係を築けたら最高だなって思う。
だから、愛しいと言っても、私の使うその愛しいって言葉の意味合いは私自身もいまいちよく分かっていない。ただ、私にもまだ生身の人間を愛しいと思える気持ちがあったことが嬉しかったしそれでわりと十分な気がしている。
もし、衣食住の順に恋愛が進んでいくなら、多分、私はしばらくの間、着る恋愛から止まってる。もしかしたら、これまで、ひとつもまともに着こなせたことはなかったかもしれないけど、これからは住む恋愛一択にしたいと思う乙女心があったりする。でも、もしかしたら、22歳、食べる恋愛ができる最後のチャンスかもしれない気もしている。また着てしまうかもしれない気もしている。でも、時間全てが自分の支配下に置けない社会という海に飛び込んだ22の夏に思うのは、これからしたいのは住む恋愛だなってことだ。だからこそ、今目の前に落ちてる愛しいって思う気持ちを食べるか住むか迷ってしまう。「恋」なんて言葉は青臭くはないかと様子を伺ってしまう。
さっきから、ジャニヲタブログのくせに恋愛なんて単語が並んで気味悪いだろうけど、愛しいという感情を目の前に、これを恋と言ってくれるな。愛と言ってくれと思う。よく分かんないけど、大事にしたい気がする。この気持ちを。
20代の着地点なんていろいろある
落ち着かなくたって、答えを出さなくたっていいんじゃないかと思っている
でも、私は内心こんな風に考えているから
周りの普通と違うかもしれない
義理と感謝で人を愛そうと思ってしまってるから、多分もう恋なんて出来ない
それは後ろ向きなんかじゃなくて前向きなことだって、誰か頷いてくれる人がいたらいいと思って書いてみた
今日は好きだけど、明日は嫌いかもしれない
素敵な人と思った途端になんだこいつと思うかもしれない
でも全部ひっくるめて今は愛しいんだ、伝わってくれ
でも応えてくれなんて思ってない
恋じゃないから、愛だから
ってそんな高尚な物じゃないかもしれないけど
目の前の気持ちで一喜一憂したりジタバタしたりしない
恋と言うな、愛と言え
恋をするな、愛せよ私